「智恵子抄」を読む。そして歌曲への道。

2008.04.24(木) 作曲までの歩み(その3)

 「値ひがたき智恵子」。心の病に冒された智恵子は,「現身(うつしみ)のわたしを見ず、わたしのうしろのわたしに焦がれる。」(第3連)とあるように,智恵子は光太郎を求め呼び続けていても,目の前にある光太郎を認識できないのである。混乱の極みにある智恵子も,そんな智恵子に直面して,気持ちを通じさせられない光太郎もあまりに痛ましい。この時期,光太郎の創作数は極端に少なくなっている。体験が芸術活動の対象になるには,まだ長い年月が必要である。
 筆者は,10年近く前に伊勢湾台風を語り継ぐ音楽劇に取り組んだ。取材のために名古屋市南図書館の伊勢湾台風資料室に保管されている体験談を読むほどに,現実の危機の真っ只中にいるときは,詩も歌もとても存在し得ないことがわかる。幾歳月を経て,やっと少し距離を置いて心の整理ができる時期になって初めて,芸術の対象となる。
 「値ひがたき智恵子」は混乱の最中にある二人の,詩というには余りに苦しい表明だ。そんな気分でピアノに向かっていたら,霧の森をあてども無く彷徨うような半音階と和声が,鍵盤から立ち昇ってきた。歌詞は転調を繰り返すピアノのメロディーと絡みながら進む。第3連を終えると同時に音楽はいったん自然に終止した。
 次の第4連「智恵子はくるしみの重さを今はすてて、限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。」では一気に霧が晴れ,青空のように解放された音楽がふさわしいと感じたので,伴奏は16分音符の動きを止め,長調の和弦にする。終結連「わたしをよぶ声をしきりにきくが、智恵子はもう人間界の切符を持たない。」で冒頭のスタイルに戻り,最後の感情の高まりのを経て深い迷いの森に消えていく。
 このようにして,音楽と詩が同時進行でうまく終結を迎えることができた。


2008.04.17(木) 作曲までの歩み(その2)

 2007年の初夏は,智恵子抄と共にあった。
 「若(も)しも智恵子が」(1949年3月10日)。年譜(北川太一 制作)によれば,1945年「十月,岩手県稗貫郡太田村山口の山林に鉱山小屋を移築して入り,農耕自炊の生活を始める」。年譜では,「苛烈な自然とすでに崩壊にひんする肉体」と記述されているが,光太郎の精神世界においては,豊かな恵みにあふれる原生林の中で,若き日の智恵子との愛の生活が実在していたのである。現実の智恵子との苦難の日々は過去のものとなり,幸福感に満ちている。(同じ境地を,ベートーベン最晩年の,一群の弦楽四重奏曲に見る)
 さて,作り始めは好調であった。光を浴びたみずみずしい原生林の空気が和声に姿を変える。「ここに居たら、」の一節が,3回でてきて脚韻のはたらきをしている。音楽上の区切りとしてもうまく生かすことができそう…。特に「いま六月の草木の中の」のフレーズは,盛り上がりの頂点となった。特に広々とした表現がほしい。いつもなら楽譜にごちゃごちゃ説明を加えるのは潔くないと思っているので,表情記号は必要最低限にしている。けれどここだけは,絶対に表情記号を添えたいと思い音楽用語辞典で探してみる。「con ampiezza」(広々と,豊かに)あ,これがぴったりだ!
 次に,「智恵子はこの三畳敷きで目をさまし」からテンポを上げ,三部形式の中間部にせよという感じで,小鳥のさえずりのようなメロディー(左の譜例)が聞こえてきた。ところが,残念なことにこのメロディーでは詩が乗らない。残念ながら作曲はここで中断された。この曲はもう陽の目を見ないなと思った。(続く)
 ☆ 詩を掲載する。

  若しも智恵子が

 若(も)しも智恵子が私といつしよに
 岩手の山の源始の息吹につつまれて
 いま六月の草木の中のここに居たら、
 ゼンマイの綿帽子がもうとれて
 キセキレイが井戸に来る山の小屋で
 ことしの夏がこれから始まる
 洋々とした季節の朝のここに居たら、
 智恵子はこの三畳敷で眼をさまし、
 両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
 やつぱり二十代の声をあげて
 十本一本のマツチをわらひ、
 杉の枯葉に火をつけて
 囲炉裏の鍋でうまい茶粥(ちやがゆ)を煮るでせう。
 畑の絹さやゑん豆をもぎつてきて
 サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。
 若しも智恵子がここに居たら、
 奥州南部の山の中の一軒家が
 たちまち真空管の機構となつて
 無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。


2007.12.23(日)−2007.12.28(金)改 作曲までの歩み(その1)

 今年(2007年)の春先,伊藤晶子先生に,新曲を作曲するので,よろしかったら歌ってみていただけませんかとお願いしてみた。すると先生は,有名な高村光太郎の智恵子抄の詩を希望された。
 智恵子抄については,たまたま私の側にもきっかけがあった。私事で恐縮だが,数年前に他界した母が生前認知症を患っていたとき,互いの心が伝わらない苦しさを体験した。そのためか,高村光太郎の詩に,自分の身に迫るものを感じていたのである。
 私は,発行時をもっとも忠実に再現した版を探した。その結果「校本 千恵子抄」(中村稔編,角川文庫 平成11年)を見つけた。(ピアノ楽譜も原典版にこだわるが,この話題はまた別の機会にする)
 多くの詩の中で,最初に強く引かれたのが「レモン哀歌」である。以下,全文を掲載する。

  そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとつた一つのレモンを
  あなたのきれいな歯がかりりと噛(か)んだ
  トパアズいろの香気が立つ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱつとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
  わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
  あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
  かういふ命の瀬戸ぎはに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん=「山頂」)でしたやうな深呼吸を一つして
  あなたの機関はそれなり止まつた
  写真の前に挿した桜の花かげに
  すずしく光るレモンを今日も置かう

 智恵子が待っていたレモンのしずくには,命の終わりを目前とした僅かな時間だけ,智恵子をわれわれの世界に戻す力があった。遠くへ去り,もう帰ってこないと思っていた智恵子が,その一瞬だけ帰ってきた。「智恵子はもとの智恵子となり」という簡潔な一節だが,そのときの心情を余すことなく語っている。それがまた読者の心に染み入り,私もまた胸が痛い。なお,「咽喉」の「嵐」は,智恵子の死因の粟粒性肺結核による息の音だと思われる。
 作品年表では昭和14年2月23日となっているが,古さも堅苦しさもなく,本当に素直で分かりやすい言葉だ。その素直さの故か作曲もまた,詩の感情のままに進んだ。4月下旬に出来上がった曲は,感情のあまりの強さに,演奏でまとめるのが大変そうだと感じた。その後,音程が高すぎて語る表現ができないところなど,細かいところの修正はあったが,大筋は変わらない。もうこのままでいくことにする。

 晶子先生に曲を見せたところ,1曲では中途半端だから,もっと曲数が欲しいということであった。また,清水脩が作曲した智恵子抄は,難しい曲であったことなどが話題になった。(続く)

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