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  今日または最近の私
 ◆ 2008/7/11(fri) あと一日で本番です
 この数日間は,コンサートのプログラムの編集,舞台投影用画像の準備,ミニ写真展の用意など意外に作業量が多く,結局ぎりぎりだった。準備期間はたっぷりあったはずだったが。
 このサイトにときどき立ち寄っていただいた皆様,ありがとうございました。実際のところ不安感もたっぷりです。でも,前向きに何かに取り組んでみて,はじめて味わえるドキドキ感なので,これはこれで貴重なものですね。このまま飛び込んでいきます。
 ◆ 2008/7/7(mon) パワーポイントを使ってみた
 智恵子抄の演出効果として,後ろに写真などを映写する。高村光太郎談話会様のご好意で画像をお借りすることができた。パソコン直結の投影装置があるので,パワーポイント(コンピュータソフト)を使って組み立ててみる。
 実は,パワーポイントを使うのは初体験である。企業や教育機関でプレゼン(画像を使った企画の提案や研究発表)に使うのが大流行しているが,要するに貧弱な中身を粉飾して見せるツールに過ぎない(偏見だとは思うが)ので,相手にしたくなかった。
 ソフトは2日前に手持ちのノートパソコンにインストールした。実際に使うのは初めてだが,紙芝居みたいに画像を並べるだけだから,どうってこともなかった。画像の切り替えは一応スムースフェードなどを指定。ただ,操作用台本を作らねばならない。こっちの方が手間がかかりそうだ。
 あと5日で本番だ。いろんな意味で,うまくいくとよいと思う。
 ◆ 2008/7/2(wed) 新聞記事になった感想
 中日新聞7月2日付け夕刊7面(芸能欄)。錚々たる演奏者の記事に囲まれた中央に,2段抜きの大見出し(!)で「名古屋の作曲家・杉村好章初の“音楽の個展”「智恵子抄」など10曲披露」。写真もついてカッコ良すぎる。
 記事中,開催の動機は,「百曲近くの作曲をしてきたが,表に出ることを避けてきた。しかし五十代半ばになって『人生何があるかわからないので,やれることはやっておきたい』と,初の個展を思い立ったという。」取材中,記者のH氏は「いわば音楽の個展ですな」と,「個展」の表現にこだわっていた。うまいこと言うと感心した。まだプログラムは印刷前だから,「音楽の個展」の表現をいただいてもいいなとも思う。 紹介された動機は,本音か冗談か自分でもよく分からない。ただし,プログラムに楽曲解説を書いてから気付いたのは,自分で言うのも変だが,本当の理由は:出来上がった智恵子抄の4曲の内的な力を相当強く感じ,曲自身がたくさんの人に聞いて欲しいと求めていると感じた,である。
 一方,伊藤晶子先生は「甘く切ないメロディーと,智恵子を思う高村光太郎の男らしい凛とした強い調べ。プロの臭みがない,こんな自由自在な曲を書ける人を世に出したい。そんな気持ちで出演を引き受けました」と話されたことになっている。大体こんな意味のことをおっしゃっていたと思うが,素晴らしいまとめ方だ。
 ところで伊藤先生はいつも,この曲には「男性的なところがある」とおっしゃる。自分は伴奏の和音が分厚かったり,和音進行が論理的だったり,割合3部形式にこだわってるところかな,などと受け取っていた。「男らしい凛とした強い調べ」か…。これは実のところよく分からない。
 ◆ 2008/6/29(sun) 肉声による朗読とBGM
 朗読中にBGMが流れると,非常に雰囲気を盛り上げることができる。通常は音声をマイクで拡大するか,BGMを録音にして音量を絞ってボリューム調整する。両方とも生音の場合大変である。自分で即興的にピアノ演奏するときは,ピアノのふたを閉め,semple una corda(左ペダル踏みっぱなし),伴奏の音符の密度を下げ…と細心の注意を払って自己犠牲に徹する。 だが譜面に書いて演奏をお願いする場合は,融通が効かない。
 今回,フルートの音色と朗読はなかなか両立がむずかしいことがわかった。結局せっかくなので効果音楽はそのまま使い,音楽が流れてきたら,朗読者自ら入りを待つ基本方針で臨むことになった。
 そもそも舞台で音楽の流れを絶やさずに台詞を聞かせるには,レチタティーヴォにして歌手が歌うか,朗読者が音楽との切り替えのタイミングを理解して臨むかどちらかしかないのだろう。(あるいは別室でモニターを見ながら演奏し,会場には音響で流す…それなら事前録音の方がよい)
 原理的には,話し声の周波数帯域は大雑把にいって普通の歌声から1オクターブは低いところにあり,エネルギーでは4分の1だから,かなりパワーに差がある。ただ,音楽と話し声が同時に鳴っていても,舞台と会場の位置関係や聴衆の耳にも個人差があることから,言葉が十分聞き取れる人も聞き取れない人もいる。
 また,歌が好きな人は,言語から意味を受け取って楽しむタイプと,音楽から直接感情を感じて満足するタイプに分かれることも関係している。前者に属する方の場合,感覚としての音響的な美しさは無意識の部分に封じ込められ,意識では言葉そのものの美しさとして受け取っていると思われる。私自身は明らかに後者なので,前者の方が多くいらっしゃることに最近まで気付かなかった。
 ◆ 2008/6/3(tue) 劇の伴奏音楽
 智恵子抄の劇部分の読み合わせが始まった。その様子から,効果音楽の場所と雰囲気を検討した。
 入れる場所は劇の導入と,詩の朗読BGMとして数箇所を決める。
 基本的に声の邪魔にならないよう,音を重ね過ぎずにPPで…と,極めて抑制的な精神で作っていく。
 譜例は,その一つ。断片で終わってしまうのがもったいない気がする。また何かで利用することにしよう。
 ◆ 2008/5/18(sun) 「女の子のマーチ」の作曲を振り返る
 コンサートで演奏すべき曲目にしていたが,まだ未完成だった「女の子のマーチ」(茨木のり子作詞)がやっと完成したのは,4月上旬であった。
 着手したのは半年前で,最終連「パン屋のおじさんが…」の前まで一応できていたが,だらだら続き盛り上がりに欠ける感じになったのが気に入らずに,しばらく放置されていた。 そのうちにコンサートが迫ってきたので,最初から作り直すことにして,まず軽妙なアルペジオパターンをピアノに設定した。ところが,最初に作ったメロディが軽妙アルペジオにそのまま乗っかることが判明したのでメロディーは利用することにした。(譜例)

(第1連)
 男の子をいじめるのは好き
 男の子をキイキイいわせるのは好き
今日も学校で二郎の頭を殴ってやった
二郎はキャンといって尻尾をまいて逃げてった
       二郎の頭は石頭
       べんとう箱がへっ込んだ

(第2連)
 パパはいう  お医者のパパはいう
 女の子は暴れちゃいけない
 からだの中に大事な部屋があるんだから
 静かにしておいで  やさしくしておいで
       そんな部屋どこにあるの
       今夜探検してみよう

 「女の子は暴れちゃいけない」ではテンポを落とし,日本語の発想記号「優しく諭すように」をつけておく。字下げして続く女の子の独白は,調性・拍子とも変え(途中で3拍子にするのは,他の曲でもやったばかりなので少し気が引けたが…),「Scherzando」と記す。こんなにぴったしなテンポ兼発想記号はないなと嬉しくなった。
(第3連)
 おばあちゃまは怒る  梅干ばあちゃま
 魚をきれいに食べない子は追いだされます
 お嫁に行っても三日ともたず返されます
 頭と尻尾だけを残し  あとはきれいに食べなさい
       お嫁になんかいかないから
       魚の骸骨みたくない

 1行目はエレジーで。2行目から主題のメロディーに戻る。独白部分は第2連と同様3拍子だが,メロディーは1回目のScherzandoとは変える。
(第4連)
 パン屋のおじさんが叫んでいた
 強くなったは女と靴下  女と靴下ァ
 パンかかえ奥さんたちが笑ってた
 あったりまえ  それにはそれの理由(わけ)があるのよ
       あたしも強くなろうっと!
       あしたはどの子を泣かせてやろうか

 題名「マーチ」にこだわり,第4連は行進曲風に。間奏に主題のカウンターベースをつけたらビートルズのペニーレイン冒頭と同じになった。曲想は全く違うので,音楽的語彙のレベルでの一致と見なして気にしないことにした。メロディーは2回目のScherzandoの変奏。最後の独白はピアノがバックで主題を弾く。ただし,伴奏はやめた方の譜例のパターンを復活させてみたら曲の終結にふさわしい幅広さが出てきた。いろいろ使い道があるものだ。
 後からよく見ると第4連だけ,主題とScherzandoの素材が逆転している。それでも音楽的にはしっくりいっているからよしとする。
 ◆ 2008/4/6(sun) (続)南文化フェスティバル終了!
 南文化フェスティバル最終日23日(日)は,フォークシンガーきたがわてつ氏を招き,地元紫陽花合唱団とジョイントコンサート。第1ステージは紫陽花合唱団の単独ステージ。1曲目は「扉を開けて」(紫陽花合唱団作詞・杉村好章作曲)で明るくスタート。このステージは作曲者自身が次回を務める。続けて,「あざみの歌」(横井弘作詞・八州秀章作曲・杉村好章編曲),女声合唱「朝」(紫陽花合唱団作詞・杉村好章作曲)。「朝」は身近にある環境問題をテーマにした曲。この機会に,きたがわてつ氏に環境問題を語っていただいた。お話の内容のひとつ目は,氏自身まずできることから実行しようと,自家用車の使用をやめたこと。2つ目は戦争による環境破壊について,ベトナム公演の体験を交えながら語っていただいた。(筆者註:ベトナム戦争当時,南ベトナム解放民族戦線の活動する森林に,大量の枯葉剤=ダイオキシンがアメリカ軍によって散布された。その土壌汚染の影響が今日まで残り,二重体児など遺伝子障害の高い発生率の原因となっている)
 4曲目は,男声合唱「星よお前は」(荒木栄作詞・作曲)最後は再び混声で「もしもピアノが弾けたなら」(阿久悠作詞・坂田晃一作曲)。
 第2ステージは,洪栄龍(ギター)・志水豪(パーカッション)と共にきたがわてつのソロステージで満場を魅了した。
 第3ステージは客席と一体で,てつ氏とともにみんなで歌う会。合唱団は客席に散らばる。杉村は司会とピアノを担当。「ふるさと」「千の風になって」に続いて客席のリクエストで大いに盛り上がる。伴奏はギター,ピアノともに,コードを頼りにぶっつけ本番で。最後に合唱団が再びステージに上がり,きたがわてつ作「そんな町を」「私を褒めてください」を一緒に歌い上げた。アンコールの予定はなかったが,「四季の歌」を急遽みんなで歌って締めくくった。
 以上私自身にとっても大変楽しい時間を過ごすことができた。てつ氏と演奏陣,合唱団のメンバー,お客様,舞台技術の"egg",南文化小劇場のスタッフ,南文化フェスティバル実行委員会の皆様に心より感謝します。
 ◆ 2008/3/24(mon) 南文化フェスティバル終了!
 20日(木・祝)は,まず杉村真理子のソプラノで最初に「カッチーニのアベマリア」。ピアノ+ベース+パーカッション(カホーンなど)のスタイルにも良く合う曲だ。ピアノの右手は四分音符だが,リズムセクションが加わると自然に8ビートの心地よい動きになる。2曲目の「さくら貝の歌」。オリジナルの伴奏はあまりに仰々しかったので,なかったことにして,コードも付け直して癒し系の伴奏をつける。これもこの編成でとっても心地よくなり,曲の価値を見直した。古い歌謡曲が生き返った。元々の仰々しい伴奏は山田耕筰!の手になるらしい。作曲の故八州秀章さんは,十分自立した作曲家なのに,わざわざ山田耕筰に弟子入りしたのは多分失敗。(因みに僕は子ども時代に耕筰の「この道」を知ったとき,文節ごとにいちいちたちどまる拍子感のなさに,「これでは音楽じゃない」と感じ,世間で名曲とされていることが全く納得できなかった)
 次にヴォーカル抜きでバッハの「プレリュード」とコラール「羊は安らかに…」。前者は平均率曲集第1集第3番嬰ハ長調という,堅苦しい名称で,広く知られているとは言えないが,ものすごい名曲で,ジャズトリオのスタイルでその価値が一層輝く曲だ。後者は前回取り上げた。
 ソリスト再登場で,「港が見える丘」。なんとなく横浜の山下公園を思い出す。大体は普通の自然なコードをつけ直したが,原曲のかび臭いコードでも,何か独特な味わいに惹かれるものがあり,最初のE→G#7→C#m→D#Augだけはそのまま生かした。ただ,メロディー最後の十六分音符C#がひっかかり,胸焼けを起こす。
 最後の「津軽海峡冬景色」はもう,開き直ってこてこての演歌スタイルでいくしかなかった。「連絡船にのり」の一節,「せんにの」についたC#7(キーはBm)は,「借用属七はこう使う」という教科書のような存在感。
 しかし客席も一体となった,この盛り上がりは何だろう?後奏には完全に拍手がかぶった。(23日のきたがわてつ+紫陽花合唱団のジョイントコンサートの報告は,また次回に)
 ◆ 2008/2/29(fri) 作曲当時から,きっとアドリブあり
 3月20日にベースソロ,ドラムスと共に演奏するの「羊は安らかに草を食み」(J.S.Bach)。原曲の大切な部分を損なうことなく,テンポを崩さず軽快に演奏したいので一応譜面を起こす。結果,原曲の譜面内の音に限定するより,ハーモニーを豊かにするために音を追加した方が明らかにいい感じになった。(図は,冒頭部分)

 もともと原曲の編成は,ソプラノのアリア+通奏低音(チェロ・コントラバスとオルガンまたはチェンバロ)+フルート2本で,骨子だけの譜面という印象である。実際の演奏場面では,チェンバロをバッハ自身がアドリブで弾いたり,編成に合わせて適当にパートを追加して楽しんで演奏していたに違いない。
 ◆ 2008/1/27(sun) コードはマイナステン
 「フランチェスカの鐘」(菊田一夫 作詞/古関祐而 作曲)のピアノ伴奏編曲を引き受ける。ゆっくりで,しぶ〜いジャズ風が希望とのこと。カウンターラインを付加する他,今回は7-10のコードを多用してみた。近代音楽では,音階は長音階と短音階。長音階(ドミソ)のミに♭がつくと短音階になる。これを同時に鳴らす(例えば図のCとCm)と,半音がぶつかって不愉快な濁った音になる。しかし,これがまた音楽のジャンルを超えてよく使われるが,ジャズで特徴的である。有名なブルース進行(C7|C7|F7|C7|G7|F7|C7を繰り返す)では,C7上でありながら,メロディーには普通にミ♭音が使用されていて,こういう場合は,長10度の音(基音のオクターブ上のミ)にフラットをつけた音を加えるという考え方でC7-10という表記がされる。
 7の和音に付加された-10の音は,実は,アフリカ大陸から奴隷として連れてこられた人たちの固有の音楽と,ヨーロッパ由来のクラシック音楽との融合に,その原因があるらしい。もともと図のような五音音階をもった民族にとっては,C7のミや,G7のシは音階にない音なので,音程が不安定で,普通に半音低い音で歌ったりしていた。それが音楽のスタイルとして定着したという話だ。長音階と短音階の混合は,究極の人工的な音作りだと考えていたのに,民族固有の音階に基づくという事実に,その考えは覆された。
 自分の受けた義務教育では,五音音階は,アジア特有だと教わった。しかし,明治時代に5音音階が類似しているという理由でアイルランド民謡が唱歌に取り入れられと聞いて意外に思った。そして,アフリカも五音音階だと知り,むしろ五音音階は世界の標準だということが分かった。例えば図の音階は,笛の長さを2分の3倍(完全5度下の音が鳴る)→4分の3倍(完全4度上の音が鳴る)を繰り返すことによって得られる。自然の森や草原の生活の中で,民族の違いを越えて自然に生み出されてきたに違いない。
 クラシック音楽における-10も,また面白い例がある。日を改めて述べる。
 ◆ 2008/1/11(sat) シファラは結構ハモる
 「めぐみの水」作曲中。2009年9月の伊勢湾台風襲来50周年・合唱劇の大コンサートで,テーマ音楽になる予定の曲。それまでの練習や発表の都合で混声3部で成り立つ必要がある。途中,メロディーがAm→F9の進行にのっかっている箇所がある。F9はファラドミ♭ソと5個も音があるのに3声部しかない。
 いろんな組み合わせがあるが,結局譜例1の,ラミ♭ソの3音への進行が,響きがよいという結論。
 この3音,一見「不協和音程」を2つも含み(ラ-ミ♭=減五度と,ラ-ソ=短七度)濁った響きで合唱も音程をとりにくいだろう…というイメージがある。だが,これが意外に豊かなのだ。実は,自然倍音(弦や空気柱の振動に自然に含まれている音。弦や空気柱を2等分,3等分,4等分…した長さから発生する音。振動数が2倍,3倍,4倍…になる)系列の5番,7番,9番にあたる。すると,差音(2音の振動数の差を振動数とする第3の音)として,2番のファの音が強められる。(5−3=2と,7−5=2)。この差音,物理的な振動としては決して存在しないが,聴覚神経から刺激を受け取った脳神経が演算して脳内で生み出す幻の音。(上部倍音の組み合わせから基音を正確に決定するための機能)F音はF9の根音だから,きっちりF9として聴き取れるのである。
 一つ前のラミラは,自然倍音系列で2,3,4なので,オクターブ下のラが差音。だから,譜例3のようにラ→ファの低音が隠れている。「不協和音程」は実際は調和のとれた豊かな響きである。集団内の人間関係に軋轢を生ずる様を表す「不協和音」とは全くイメージが違う。
 このように「不協和」というとイメージが違うが,減4度や長短の七度が,普通の三度五度の三和音への強い志向性をもつ響きであることは確かである。半音隣の音へ移ることで,より単純な響きに変わるのなら,行こうとする。[ミ♭→レ,ラ→シ♭]の場合,次のコードはB♭。[ミ♭→ミ,ラ→ソ♯]ならE(この場合はミ♭はレ♯で表現される)。[ソ→ファ♯,シ♭→ラ]でDにいく道もある。
 より適切な用語はないか?「志向性音程」とか…
 ◆ 2008/1/5(sat)

 「朝起きて〜」の曲(仮題「朝」)女声合唱にて,伴奏も書いて大体完成。十六分音符がころころ転がる伴奏だが,自分で弾きこなすには,まだ練習が必要。(というか今は,はっきり言って下手くそ!)去年,人前(ただし内輪の催しだが)で「魔王」の伴奏!を弾いた自分が信じられない。練習して必ず美しく弾きこなして見せる。(図は,譜面を少しだけ抜粋)
 曲のテーマは,温暖化する地球を救うために,身近なところから取り組もうという決意を語るもの。合唱が歌えるようになっていれば,3月の紫陽花合唱団の演奏会(23日,南文化小劇場)で演奏する予定。

 ◆ 2008/1/1(tue)

 年末,紫陽花女声コーラスが作った歌詞に,曲をつけ始めた。
 歌詞の最初が「朝起きて あなたが見える まだ生きている 幸せね」。
 これどういう状況?
 (ケース1)夫が病の床に…[これではあまりに重過ぎる]
 (ケース2)いろいろな苦労があり,「正直言えばいなくなってくれた方が楽」という気持ちが,心の片隅に浮かんだことはある。でもやっぱり生きていてほしい。今朝も無事に寝息(いびき?)たててるからまあ,幸せかな…という奥さんの心の声[苦笑]
 一応ケース2を想定して,「いきている」にdimコードで軽いさびにした後,押さえた表現の「しあわせね」でフレーズを締めくくる。ちょっと微笑が浮かぶ感じで,まあまあの8小節ができた。さらにがんばり,とりあえず最後まで曲をつけた。
 その段階になって,詩のとりまとめをしていAさんが,「まだ生きている」は言葉としてきついから直したいと言い出す。例えば「すやすやと」。せっかくのエスプリを利かせたいいメロディ(笑)が気に入ってたのに,どうしてくれるんだと言いたかったが,ご意見も尤もなので歌詞置き換え大作戦を敢行。
 出来上がったメロディーの歌詞を部分修正するのは以外にむずかしい。いいことばが見つかっても,イントネーションが不自然で,ことばに合わせてメロディーを部分修正すると,今度はメロディーが不自然でどうしようもない代物になる。今回もしばらく悩んでいたら,ふと「夢の中」ということばが浮かび,歌詞,メロディーともにそれなりに成り立つので一応これに決める。
 毒気が抜けてややつまらくなったが,さすがに「まだ生きている」のままは無理。より適切な歌詞があれば,という課題は残っている。
 こんな調子で今年も曲作りに挑戦する日々が続く。そして,曲が出来上がったあと,豊かな表現で歌えるように練習する苦労も。

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