評論−音楽、そのほか

2011.03.23(水) 巨大地震で亡くなられた方々を哀悼し、被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます

   平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
 犠牲者が、ついに2万名を大きく超えそうな事態になりました。かつて八重山諸島を中心に1万2000名の死者を出した明和の大津波(1771年)、2万1915名の死者を出した明治三陸大津波(1896年)がありましたが、それは歴史的な事件であり、現在の日本ではそんなに多くの犠牲者が出るような自然災害は起こりえないと信じていました。
 これがいかに大きな数字であるのか、年間の交通事故死者が昨年は4914人だったことからも分かります。最近の目覚しい科学技術の発達、情報網の充実が、自然現象に対してはいかに無力であったかを思い知らされ、大きなショックを受けました。このレベルの事象に対しては、数百年前と何も変わりないということです。
 もうひとつ危惧しているのが、原子炉事故による放射性物質の環境への流出です。政府は、個々の数値を取り上げて「直ちに健康に影響するものではない」としきりに強調していますが、それは根本的に誤りです。
 確かに、発表された量の放射能を浴びて直接重病を発病したり、即死することはありません。しかし、現在も原子炉から漏出し続けている放射性物質(ヨウ素131、セシウム137など)は広い面積のな土壌、地下水、海水を広がっています。
 今後その土壌で育った野菜、植物を食べた牛や豚、魚、そして呼吸した空気、飲み水から確実に人体に入ってくるのです。それは、例えば平常時で甲状腺ガンの発病率が10000人に8人程度なのが、目に見えて増加する(例えば数十人になるなど)など、統計的にガンや遺伝病の発症率が増加するという形で現れ、その影響が数年程度続くかも知れません。
 ですから、個々の数値ではなく、今すぐ広い範囲でできる限りきめ細かく正確に測定し、その分布と総量を把握する必要があります。そして、さまざまな疾患の発生率を予測していく必要があります。
 今後、徐々にこれらの調査と研究が進み、影響が具体的に分かってくれば、今後、大問題に発展していくと思われます。
 エネルギー政策を見直すチャンスとして前向きに進みたい思いもありますが、今はまだ暗澹たる気持ちです。
 その中で救いは、テレビですが現地の子どもや、身近で募金に取り組む子どもたちの明るい表情です。
 彼らが将来、エネルギーや環境について適切な判断をし、世界をよい方向に進める選択ができるように、事実を詳しく、そして分かりやすく知らせ、考える力と連帯の心を育てるのが、われわれの現在の最大の責務だと思います。
 「被害に遭わなかった私たちは、被害にあった人の力になろう」と考え援助するのは美しい心です。同時に、自分自身も困難を乗り越えていく当事者の一人であることを自覚し、できることから取り組み、連帯して進もうと思います。


2010.04.04(日) ウィリアム・バード(William Byrd 1540?〜1623)の「五声のミサ曲」

 宗教音楽(ヨーロッパのキリスト教の場合)に次の2つのタイプがあることを、いつも意識させられる。

(Aタイプ)個々の語句はあまり意識せず、美しいメロディーを通して全体的に自然な宗教感情を表現しようとする。
(Bタイプ)文章としての歌詞の意味を論理的に捉え、各部分ごとにそれぞれの意味を音楽で表現しようとする。
 例えばベートーベンの場合、ミサソレムニスに比べて交響曲「田園」の方がずっと宗教的に感じられるのは、田園はAタイプ(そもそも歌詞がない)で、ミサソレムニスの特に、CredoがものすごくBタイプだからである。(但し、BenedictusだけはまことにAタイプ)
 バッハのロ短調ミサで、Credoの前半部の、Et in unum dominum Jesum Christum は、SopとMezzo の美しい二重唱であるが、これはベートーベンとは対照的にAタイプである。

 パレストリーナのミサ曲は、Aタイプだと感じていた。その理由は、パレストリーナの場合教会が日常生活に溶け込んでいたから、典礼文を改めて論理的に捉える必要はなく、純粋に音楽的に表現したからである。(ただし、これについてはいずれ詳細に研究する)

 バードのミサ曲も時代的にAタイプだと想像していたが、実際の曲のつくりはかなりBタイプであることに驚いた。
 これは、バードの置かれていた状況と関係ありそうだ。

 イギリスでは1530年ごろ国王ヘンリー8世が、自らの掟破りの離婚が認められなかったために、強引にローマカトリック教会と断絶してイギリス国教会を創立した。イギリス国教会のミサの典礼文は英語で、内容もローマカトリックの典礼文と相違がある。この時代に生きたバードは、しかしカトリック教徒であった。当時のイギリスでは強いストレスを感じる環境だったと思われる[バード自身に対してはどうだか分からないが、一般的にはカトリック教徒への弾圧があったとされている]が、ラテン語のミサ曲を書くとき、カトリックへの強い信念が注がれたのではないか。なぜなら、曲の各部分に典礼文の個々の語句への強い共感にあふれているのが感じられるからである。(たとえば、「聖霊により処女マリアから人となりたまえり」の神秘性への深い思い入れ、「十字架につけられ」の劇的な表現など)
 その中でも特に注目されるのは、「われ教会を信ず」(Et unam … Ecclesiam)の部分の丁寧な扱いである。Catholicam(公的な権威のある)、Apostolicam(聖書の十二使徒から伝承された)Ecclesiam(バードにとってはおそらくローマカトリック教会)の各単語を、輪郭もくっきりとホモフォニー(各パートが追いかける[ポリフォニー]のではなく、同時に和音を作って響かせる音楽のスタイル)で明瞭に歌詞が聞き取れる、確信に満ちた表現がされている。これは、他の作曲家による有名なミサ曲と対照的である。例えばバッハのロ短調ミサでは牧歌的なBassのアリア「われ聖霊を信ず」の最後にさりげなく付け足されている。
 モーツァルトやハイドンでは、たいていは3部形式(A−B−A’;A’はEt resurrexitから冒頭部分を反復する)の反復部分A’の一節として特に強調もなく早口で通過する。ベートーベンのミサソレムニスに至っては、コーラスのSoprano,Alto による’Credo’の反復の下でTenoreに一応歌詞が割り振られているが、意図的に聞きとれないように作曲したとしか思えない(当時の教会の権威主義に対する反発があったためか)。

 バードは、ローマカトリック教会から袂を分かったイギリスにいて、カトリック教徒としての強い信念が随所に現れていると感じられるのである。だから、演奏にあたっては、バードが典礼文の各節をどのように捉えて音楽にしたのかを読み取ることが不可欠であろう。(但し、だからと言って曲作りに人工的な細工を加えるのではなく、自然な流れに沿って基本を大切にして歌い、結果的に作曲者が込めた感情や主張が浮かび上がってくるのが望ましい)

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