魏志倭人伝を読む。
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《原文のテキスト版があります》(pdfファイル) 魏志倭人伝(紹興本)魏志倭人伝(紹煕本)
※原文画像に基づき、原文字となるべく近いフォントによる文書化を試みました。まだ若干誤りが残っている可能性がありますのでご注意ください。

2011.04.23(土)原文を読む(21) 奴国

東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸
東南奴国に至る百里。官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。

東南へ向かい奴国に到着するまで百里。官をじまこと言い、副官を鄙守と言う。二万戸余りがある。
【奴国】
 倭国の支配地域にだんだん深く入るに従って記録官による見聞資料はどんどん乏しくなり、奴国に至ってはついに官・副官名と戸数だけしか書けなくなる。
 奴国について官名・戸数以外でわかることは、「末蘆国―伊都国―奴国の順に地続きに並んでいて、奴国―伊都国間の距離は末蘆国―伊都国より短い。」ただそれだけである。
 だが、現在の福岡県博多区のあたりがかつての奴国であるとされている。その根拠について調べる。

 後漢(25~220)の歴史をまとめた『後漢書』(ごかんじょ)に、「倭奴国」が57年に朝献し、冊封関係を結んだ記録がある。
 そのとき下賜されたと見られる金印の実物が博多湾の志賀島(しかのしま)で発見された。その「倭奴国」は「倭にある奴の国」の意味なのか、また「倭奴国」は後に魏志に書かれた「奴国」と同一なのか、証明する資料はない。古くは「いどこく」と読む説もあった。
 旧那珂郡内、現在の福岡市博多区付近には、
(1)比恵・珂郡遺跡群があり、そこには3世紀の大路の遺構や、古墳時代初期の「那珂八幡古墳」がある。
(2)海を挟んだ志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見された。
(3)那珂郡は、大化の改新(646)以前の「儺縣」(なのあがた)に由来し、また博多湾沿いの港はかつて儺津(なのつ)と呼ばれていた。
 ※県(あがた)は、古墳時代初頭から律令制までの行政区分。政権によって任命された県主(あがたのぬし)によって治められた。
 以上から、魏志の「奴国」は比恵・珂郡遺跡群近辺にあり、後漢書の「倭奴国」は「国名―所属する小国名」の構造であり、後の儺縣、那珂郡につながる地域であるとするのが定説になっている。

【東南】
 那珂八幡古墳(北緯33度34分15秒、東経130度26分9秒)を珂郡遺跡群の代表点として見ると、伊都国の平原遺跡(北緯33度32分32秒、東経130度13分41秒)から見て東から東北東(北から80.6度)の位置にある。末蘆国~伊都国間ほどではないが、方位は南東から北方へ54度ずれている。

【百里】
 那珂八幡古墳と平原遺跡の距離は19.5km。1里=76.7mとすると、254里に相当する。500里とされた末蘆国伊都国間よりは相当短いが、「100里」から見た誤差は大きい。「帯方郡から遠ざかるほど情報が不確実になる」ことのひとつの表れと解釈することができる。
 
【里程の書き表し方】
 伊都国までは国名の前だったが、奴国からは国名の後に置かれる。文法的には、
東南陸行五百里到伊都國 (東南陸行五百里、伊都国に到る)…「五百里」は動詞「行」の目的語。(「陸」は「行」を連体修飾する)
東南至奴國百里 (東南奴国に至ること百里)…「百里」は動詞「至」の目的語であるところの「奴国」の補語。
 意味としては、どちらも同じである。
 里程の書き表し方を比較してみる。
《度一海》<千餘里>至對馬國
《渡一海》<千餘里>*1至一大國
《渡一海》<千餘里>至末盧國
東南《陸行》<五百里>到伊都國
東南至奴國<百里>
東行至不彌國<百里>
至投馬國《水行》<二十日>
至邪馬壹國*2《水行》<十日>《陸行》<一月>
*1 「名曰瀚海」が挿入されている。 *2「女王之所都」が挿入されている。

 私が想像するところでは、伊都国までは、行政記録(官名、戸数など)に記録官による資料(紀行文的記録)を該当の箇所に組み込む作業があったので、それなりに文章の体裁を整えた。奴國以後は紀行文の記録がないので、行政記録だけを簡潔に取りまとめた。その差が、書き方の違いに反映している。

【「又」の有無の問題】
 末蘆国までは接続詞「又」で繋がっていたが、以後「又」がなくなる。そのためか、「伊都国以後の距離はすべて伊都国を基点」とする、いわゆる「放射説」がある。
 しかし「又」がなくなるのは伊都国からだから、「又」の有無が理由なら放射説の基点は末蘆国でなければならない。
 基点を末蘆国にした場合、奴国を比恵・那珂遺跡群辺りと仮定すれば、伊都国(五百里)より遠いのに「百里」しかないので、放射説は伊都国からとされる。しかしそれでは「又」の有無も無関係となってしまうから、何も根拠がなくなる。
 これまで精密に文を見た結果では、倭人伝では、事実に一致しているかどうかは別として、文章自体は論理的に明確である。仮に「ここからは放射状」に変更するなら、以後の各文に、確実に「自伊都国」をつけるはずである。それがない限り、これまで連続してくればこれからも連続する。
 改めて「又」の使い方を見ると「始」と組み合わされて「渡ー海」で始まる3節を繋いでいる。すなわち「始度一海 ~ 又渡一海 ~ 又渡一海 ~」。その後「又」はなくなる。もう各節の分量が少なくなっているので、わざわざ「又」を挟む必要はない。「渡海」の部分は、各セクションが相当長いので「始」と「又」を使用することによて、文章の構造を見えやすくする必要がある。
 「又」と共に里程の「余」「可」など概数文字も消える。このように記述が簡略化されていくのは、やはり資料が手薄になってきた結果である。

【官曰兕馬觚副曰卑奴母離】
 [兕]動物名(サイの一種)。呉音=ジ、漢音=シ。中古音「邪旨上」=zi。
 [馬]呉音=メ、漢音=バ。中古音「明馬上」=ma。

 奴国の副官も「鄙守」である。古くは漢と直接外交関係を結ぶ有力な国であったが、やがて周辺の国と同様に女王国に統属し鄙守の監督を受ける国になった。

【有二萬餘戸】
 邪馬台国7万余戸、投馬国5万余戸につぐ規模である。女王国の支配を受けるようになった後も、なお有力な国であったことがわかる。

【那珂遺跡】
 以後、奴国の歴史をさらに学ぶ。
 那珂遺跡が、福岡市竹下駅から徒歩数分の福岡大同青果にあり、<福岡市の文化財>縄文時代晩期末の二重の環濠集落が見つかっている。環濠は5m間隔で平行して走っていて、平面形は長径160m、短径140mの円形になると考えられている。濠内から夜臼式土器や石器が出土した。</福岡市の文化財>
 縄文時代晩期はBC23~BC18世紀ぐらいとされているから、倭奴國の時代からは2000年ぐらい遡る。

 【那珂八幡古墳】
 <wikipedia>後円部が正円形でなく、くびれ部の広がり方から箸墓古墳と同じ撥形になる、発生期・出現期古墳の典型的な姿を示している。</wikipedia>三角縁神獣鏡も出土している。
 古墳時代は3世紀後半から始まるとされるが、女王国が魏国に朝献した景初3年(239)ごろは、ちょうど古墳の出現期と考えられている。

【比恵・那珂遺跡群】
 旧石器時代から中世におよぶ複合遺跡。2007年3月、3世紀頃とみられる幅7mの道路が100mにわたって確認された。<asahi.com>那珂遺跡群の北にある同時期の比恵遺跡群など十数カ所で断片的に溝の跡が出土しており、今回の発見で、全長1.5キロの直線道路が復元できるという。</asahi.com>
 南北の大路が整備された古代都市が想像される。ただし、倭奴國の時期ではなく、女王国の支配下の時期の遺跡である。

【漢委奴國印】
 魏(220~265)の直前、後漢時代(25~220)を対象とした歴史書『後漢書』がまとめられたのは、432年で、三国志の編纂(280~290)より後になってからである。倭国についての記述の多くは魏志と共通するので、魏志の記述をそのまま利用したと思われる。
 魏志にない、後漢時代のできごとの記録は、次の2文だけである。

(1) 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
(2) 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

 (2)の永初は、(劉)宋にもあるが(永初元年=420年)、ここでは「安帝永初元年」と皇帝名によって後漢の年号であることが示され、107年にあたる。文意は分かりやすいので、特に取り上げない。
 (1)建武中元二年=57年
 (1)の区切り方; 建武中元二年/倭奴國/奉貢/朝賀/使人/自稱大夫/倭國之極南界也/光武賜以印綬
 奉貢:貢は明らかに<國際電腦>2.貢品</國際電腦>(みつぎ物)。奉が動詞。主語は倭奴國。従って、「倭の奴国、貢物を奉ず」
 朝賀:これも主語は倭奴國。<漢辞海>諸侯や臣下が参内して天子に祝いのことばを述べる。</漢辞海><wikipedia>唐の杜佑が編纂した『通典』によれば、漢の高祖が初めて朝賀儀を行ったとされている。</wikipedia>わが国では「年賀の儀式」として行うようになった。
 使人:=使者。
 自稱大夫:<漢辞海>「自」=動詞句の前に置き、自分自身を対象としてその動作行為を行う</漢辞海>魏志の記述「自古以來其使詣中國皆自穪大夫」を根拠にしたと見られる。「大夫」は、官位にあるものの尊称。
 極:<漢辞海/抜粋/>《名》「もともと家屋の棟(むね)。達しうる最終点。北極・南極」など。《動》「限界まで到着する。極める」《形》「はるかに遠い。最高の」</漢辞海>これまでの経験では、大抵2文字熟語として区切るとうまくいく。3文字の場合は「動詞1文字+2文字熟語」の解釈がよい。
 倭國之極南界也:<漢辞海>主語と述語の間に「之」を置き、多く「也」をともなって、「A之B也」(AのBスルや)の形で、「AがBする(した)とき」と訳し、時間を示す</漢辞海>つまり英語の"when~,"節にあたる。「極」を動詞としてこの句法を適用すると、「倭國の南境を極むや」つまり「倭国が南の境界まで(支配範囲または軍勢を)極めたとき」となる。
 なお、魏志ごろの中国からの地理観では、倭国は北から南に向かって伸びていた。(後の回で詳しく述べる)従って「南界」は、実質的に倭国の勢力圏の東の境界であると考えられる。
 光武賜以印綬:「光武[帝]、[恩恵を]賜るに印綬を以ってす。」「以」《前置詞》は手段を表し、本来の語順は「以印綬賜」だが、倒置しても同じ意味。ただしこの場合の「以」は形式的に動詞となる。
 賜:上の者が下の者にすることを敬って言う。「印綬の授与によって、敬うべきことをしていただいた。」というニュアンスか。
 印綬:<wikipedia/要約/>「印」は印章、「綬」は印のつまみに通された紐。それぞれ格上から玉(ヒスイ)→金→銀→銅、綬は多色[6色;皇帝のみ]→綟(萌黄)→紫→青→黒→黄。漢の時代、諸侯王は金璽綟綬(きんじれいじゅ)[文字「璽」が使われた金印]、冊封された諸国の王はそれより一段下の金印紫綬。</wikipedia>
 「漢委奴國王」の翌年作られた「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」は金璽[そしておそらく]綟綬、「漢委奴國王」「親魏倭王」は金印紫綬。女王国の使者難升米・牛利は天子に朝献し、銀印靑綬を授かった。

[大意] 建武中元二年、倭の奴国が貢品を奉じ、朝賀[天子の前に一同が会して祝意を述べる儀式]に参加した。使者は自ら大夫[官の尊称]と称した。倭国が南の境界まで平定したとき、光武帝は印綬をもって恩恵を賜った。

【金印の発見】
 金印は、天明4年(1784)に志賀島の叶崎(かなのさき)で農民によって発見され、最初に鑑定したのが黒田藩西学問所、甘棠館(かんとうかん)の館長亀井南冥。南冥は『後漢書』の記述から、光武帝から賜った印綬そのものであるという確信を得、黒田藩による厳重な保存に力を尽くす。
 その後根強い贋作説があったが、1957(1956?)年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から発見された「滇(てん)王之印」1981年に中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」(漢委奴國印の翌58年に光武帝の子劉荊(りゅうけい)に下賜)と相当の共通性が見られた。
 1784年の段階で、200年後に発見された金印と酷似する金印の製作は不可能である。特に「廣陵王爾」の鈕(印のつまみ部分)の文様が、同一の鏨(たがね)によって打ち出されていた点などから「漢委奴國印」贋作説は完全に否定された。 
 それにしても後漢書から記述を見つけ、熱心にその発見の意義を説いた亀井南冥の尽力がなければ、どこかの蔵の中でとっくに忘れ去られたであろう。金印の現存は、奇跡と言う他はない。
 残された最大の謎は、なぜ金印が比恵・那珂遺跡群から離れ、志賀島からこれだけ発見されたかということである。志賀島に墳墓や王宮があれば話は分かる。しかし<金印公園>昭和48年に九州大学が、平成元年と5年に福岡市教育委員会が出土地付近の調査を行ったが、金印に関係する新たな遺構は何ら発見されなかった。</金印公園>
 とすれば、第2回で書いた、進出してきた女王国に敗北し、志摩に逃れた部族が将来の再起を記して岩の下に隠したという「勝手な想像」に信憑性が出てくる。と思ったら、既にそういう学説があった。
 すなわち<金印公園>(1)「隠匿説-倭国大乱のあおりで、金印は隠された</金印公園>とする説。
 志賀島(今は砂州によって陸続きになっているが、当時は孤島)に追い詰めれた奴国軍は、かくて最後の絶望的な戦いに臨んだ。
 また、別の想像も可能である。かつての倭奴国の王として栄華を極めた一族が時を経て追放され、逃れた先の志賀島で子孫が細々と生き延びた。金印は岩の下に隠し、もう本来の意味は分からなくなっていたが、一族の宝として密かに祀り続けたのかも知れない。(ならば、それなりの生活痕が発掘されてもいいような気もするが…)
 いずれにしても、「倭奴国の王一族の子孫が、何らかの事情で金印を持って志賀島へ移動した」ことは確実である。

 同じ回でもうひとつ、金印は「委ねる」意味ではないかと考えていたが、建武中元二年よりはるか以前に書かれた『山海経』(戦国時代から秦朝・漢代まで(BC403~AD8)に少しずつ累積された)に「倭」という呼び名があるので、こちらは私の想像が否定された。

【まとめ】
 これまで学んだことから、奴国の姿の推定しまとめてみる。
 奴国は伊都国の東隣、現在の福岡市博多区付近にあたり、後漢の頃に倭国を統一し、代表して朝献する有力な国であった。その後女王国との戦闘に敗北して支配下に置かれ、周辺の国と同様政権中枢に鄙守が派遣され、伊都国の一大卒による監督を受ける立場になった。
 しかし依然として大路を中心に整備された古代都市の威容を誇り、戸数2万戸以上の大きな国である。王は女王国から一定の権威を認められ、死後は新しい墳墓の形態である古墳に埋葬されることを許された。


2011.04.16(土)原文を読む(20) 郡使

郡使往來常所駐
[帯方]郡使往来し、常に駐(とど)まる所なり。

帯方郡の使者が行き来し、常に駐在するところである。

【常】
<漢辞海>《副》1いつも。とこしえに。つねに。</漢辞海>

【駐】
<國際電腦>1. 馬立止。2. 車駕停住。3. 停留。4. 居留其地。</國際電腦>(1.馬が立ち止まる。2.車駕(馬車、天子の乗り物)がとどまる。3.とどまる。4.その地にとどまる。)
<漢辞海>《動》とどまる。ア 車馬がとまる。イ 軍隊が長い間ある土地にとどまる。</漢辞海>

 魏は、朝鮮半島に楽浪郡(現在の平壌)、帯方郡(おそらく現在のソウル付近)を置いて半島を統治した。帯方郡の担当区域は韓国(半島南部)と倭国である。帯方郡は、倭国の伊都国に代表(郡使)を「常駐」させた。代表は時々郡治(役所が置かれた中心地)に帰還した。
 つまり、郡使はほぼ現代の全権大使である。当然大使館に相当する、立派な居館があったはずである。帯方郡側の意識では、ここが支配域の限界だっただろう。けれども他方、倭国側はここに一大卒を置き、さらに近隣の各国に鄙守を配置して強力に支配していた。
 郡使の居館と一大卒の居館の間には、一定の距離があっただろうが、相互に頻繁に使いを送ったり、直接訪問したりして緊張した空気があったと想像される。
 前述したように、伊都国付近までは、帯方郡の下級官吏が訪れ(あたかも自分の領内のように)直接測量(歩測)することもできた。しかし、下級官吏が倭国の領内にこれ以上深く踏み込むことは、許されていなかったのである。


2011.04.15(金)原文を読む(19) 丗有王

丗有王皆統屬女王國
世(よよ)王有り、皆女王国に統属す。

代々王がいたが、全員が女王国に従属してきた。

【「皆」の解釈】
 何が「皆」なのか、次の2つの可能性がある。
 ① 対馬国、一支国、末蘆国、伊都国の4つの国の国王。
 ② 伊都国の歴代の国王。
 検討する前に、念のために「皆」の意味を確認する。
<漢辞海>みな。すべて。《主語がことごとく同じ事態になる意》</漢辞海>
<國際電腦>1. 都;俱,表示統括。 2. 普遍。</國際電腦>
 都には「聚集、総」、倶には「共同、相同」の意味があるので、「皆」は「複数が同じように」の意。つまり、現在の日本語の「みな」と考えてよいことが確認できた。

【魏略では】
 「其国王皆屬王女也」まず、「女王」ではなく「王女」になっている。「女王」は「王の娘」であるが、「王であるところの女」(すなわち女王)ととることもできる。魏略の作者(または引用者)はこの点には無関心であったと思われるので、気にしない方がよい。
 本題に戻る。「その国王は皆」は、対馬国から伊都国の4国の国王を指すに違いない。

【丗・世】
 もともと、十を3つ合体させた文字。つまり、丗=三十である(廿=二十と同じ)。なお、丗は世と字体が異なるが、同じである。
<國際電腦>1. 古稱三十年為一世。 2. 父子相繼為一世。</國際電腦>(1.古くは三十年を一世と称する。2.子が父を継ぐを一世とする。)
<漢辞海>三十年。父から子へ、後を継ぐまでの期間。</漢辞海>
 英語の"generation"<新グローバル英和辞典>世代, 1代, 《1世代の出生から次の世代の出生までの期間; 約30年》</新グローバル英和辞典>と同じ発想であるところが興味深い。
 さて、「世」の連用修飾語(動詞を形容する)としての用法(動詞の直前に置かれる)は、<國際電腦>5. 世世代代。 </國際電腦>また<漢辞海>《連用化》代々。代々にわたって。よよ</漢辞海>である。
 従って「世」は「代々にわたって」の意味で直後の「有」を形容するのは明白である。その結果、次の「皆」がよく理解できるようになる。

 このように魏略から魏志になるとき、字面は似ているが一部の書き換えによって意味が大きく転換した。

【統属】
 統…[名]糸の束の先端、統領。[動]統治する。[副]全面的に、全部。
 属…[動]つき従う。
<大辞林>とうぞく【統属】統制のもとに属すること。</大辞林>
 一方、<漢辞海>【統計】まとめて計算する。【統制】まとめて取り締まる。【統率】全体をまとめてひきいる。</漢辞海>つまり「全体をまとめて(~する)」という意味の連体修飾語として使用される。
 だから、「皆統属~」は「みなが全部~に従う」となり、重複度が強い表現になっている。

 魏志の編者が魏略の記述に「世」「統」を付け加えた行為から、対象を伊都国に絞り込み、さらに代々の王が女王国に従属したことを敢えて強調しようとする意思が読み取れる。その意図はどこにあるのか。
 また、王はそのまま官に任命されて「ぬし」と呼ばたのか、王が官と別人ならなぜ王の名前の記述がないのか。疑問は尽きない。


2011.04.12(火)原文を読む(18) 有千餘戸

官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸
官を爾支と曰い、副を泄謨觚柄渠觚と曰う。千余戸有り。

官をぬしと言い、副官をせつもこ、へいきょこと言う。千戸余りがある。

【漢字の読み方】
[漢音と呉音]
 「漢音」は<漢辞海解説>遣唐使や入唐僧らが、唐のみやこ長安で学んだ清新な文化とともに入ってきた</漢辞海>もので、それ以前に既に相当定着していた読みは、駆逐すべきものと考えいくらか軽蔑的に「呉音」と呼んだらしい。

[中国語における発音]
 同じ漢字でも、発音は当然時代による変遷がある。古い時代の発音は、BC6世紀の詩集『詩経』による上古音、7世紀の発音解説書『切韻』による中古音、14世紀の『中原音韻』による近古音が知られている。
 そのうち中古音では、発音記号は漢字3文字の組み合わせである。例えば「爾」は「日紙上」。1文字目は「声母」といい、要するに頭の子音(「さ」をローマ字で「sa」と書く。その「s」)。
 2文字目は「韻母」といい、声母以外の部分。日本語では「sa」の「a」の部分のように単純に母音1個だが、中国語では二重母音や、文節の末につく子音(英語のingのようなもの)などもあり多様である。
 ここまでは、それぞれの代表となる漢字を決めて使う。
 3文字目は、「声調」といい、韻母内の音の高低の変化(周波数=ピッチの変化のパターン:高いまま一定とか、高く入って低くなっていくなど)。平・上・去・入の4種類があり、声母・韻母が一致しても声調が異なると全く意味が変わる。
 中古音時代、それぞれの声調の実際の音の動きがどうだったかというと、残念ながらそれらを<wikipedia>推定することは困難である</wikipedia>とのこと。
 例えば「爾」の発音は「日紙上」で現され、概ね「日」=ny、「紙」=i。だから「にゅい」に近い。
 漢音は、長安の中古音を移入したものであり、呉音はそれ以前の発音を持ち帰ったものだから、古代の倭の人名や地名などは現在の呉音で読めば、当らずとも遠からずというところである。

【爾支】
 爾…呉音「に」漢音「じ」
 支…呉音・漢音「し」
 「爾支」の読み…にし、にき
 倭人が「ぬし」と発音していたのが「にし」と聞き取られたという説がある。
 <大辞林抜粋>ぬし【主】(名)ある土地や集団・社会を支配し、つかさどる人。</大辞林抜粋>
 ぬしと言えば、大国主命(おおくにぬしのみこと;<wikipedia>出雲神話に登場する</wikipedia>)が思い浮かぶ。
 確かに「ひこ」があるのだから、「ぬし」があってもよい気がする。

【泄謨觚】
 泄…漢音「せつ」
 謨…呉音・漢音「ぼ」
 觚…漢音「こ」
 サイトを探って見つけた「泄謨觚」のよみ…せつもこ せもこ せもく いもこ ひほこ しまこ しぼこ
 なお、魏略では、「曳渓觚」(えいけいこ)。

【柄渠觚】
 柄…漢音「へい」、中古音「幫映去」=piang。以前考察したように、「へ」は古くは「pe」と発音したが、現代のように「へ」と読んで差し支えない。
 渠…呉音「こ」漢音「きょ」、中古音「群魚平」=gio(ギオ)。
 サイトを探って見つけた「柄渠觚」のよみ…へいきょこ ひょうごこ へごこ へくこ ひここ へくこ へこく へきこ  へいここ
 副官は対馬国・一支国と異なり、固有名詞で2名連記されていると見られる。
 それぞれ末尾の「こ」は敬称かも知れない。<大辞林>こ…名詞に付いて、親しみの気持ちを添える。「根っこ」など</大辞書林>。普通名詞につくが、もともと人名につける敬称だった可能性も。
 試しに「せつぼ=(例えば)瀬坪」が現在の苗字に残ってないかと思って調べてみたが、なかった。
 読み方については、官名や、天皇名、現在の地名などにつながる場合は突き詰めることに意味があるが、それら以外の固有名詞の場合は、突き詰める必要も根拠もない。
 だから、形式的に一般的な呉音を宛てておく程度でよいだろう。(現在、中国語の氏名を日本語読みするのと同じ)

【大官、副官の固有名詞による表記】
 伊都国は特別な条件として、「郡使往來常所駐」つまり、帯方郡の使節が常駐する現在でいう大使館がある。また、邪馬台国から派遣されて諸国に睨みをきかせる「一大卒」の常駐場所でもある。
 つまり、伊都国は重要な外交の舞台である。したがって帯方郡使は伊都国の役人に直接面会し、記録官も同席したことであろう。
 一般的に大官は、役所外では住民に尊称「ひこ」で呼ばれ、役場内では役人の間で「ぬし」と呼ばれていたとする。
 対馬国では、帯方郡使は直接大官に接触できず、住民が「ひこ」と呼ぶのを聞いて記録した。それに対して伊都国では役所内で「ぬし」と呼ばれていたのを聞き、それを記録した。
 そして、「せつも」「へいきょ」は実は2人の鄙守(ひなもり)で、間近に接することができた伊都国では、具体的に名前を知ることができた。
 また、鄙守は各国に複数いた。何故かというと、日本書紀に書かれた景光天皇の日向の国への親征(前述)では、兄鄙守と弟鄙守が登場している。

【有千余戸】
 戸数が表記されている国邑のうち一番少ないが、帯方郡・邪馬台国双方の代表が駐在する最前線なので、政治的には最も重要である。
 文字「都」が宛てられているように、実は宮廷と双方の外交館が広大な面積を占めているので、住民が少ないのかも知れない。
 ことによると、すごい遺跡が埋もれているかも知れない。
 ただ、魏略では、東南五東里到伊都國戸万餘とあり、戸数が魏志の10倍ある。文の位置も魏志とは違い官名の前である。この相違が意味するところは、さすがに想像がつかない。なお、「五東里」は明らかに「五百里」の誤写である。

 以上、想像過多であることは充分自覚しているが、否定する材料もないと思う。


2011.04.09(土)原文を読む(17) 到伊都國

東南陸行五百里到伊都國
東南に陸行五百里、伊都国に到る。

ここからは陸上の道を東南に向け五百里行くと、伊都国に到着する。

【怡土郡(いとぐん、いとのこおり)】
 7世紀末に筑紫国が筑前・筑後に分割された。筑前国の15郡のうち志摩郡・怡土郡は、1896年に合併して糸島郡になった。その後一部は福岡市に編入され、他の村は合併を繰り返した。
 そのうち前原町は1992年に前原市になり、その時点で糸島郡は志摩町・二丈町となった。
 現在の糸島市は、<wikipedia>人口およそ10万人の市。2010年1月1日に前原市・志摩町・二丈町が合併し発足した。</wikipedia>市のサイト名に、「福岡県糸島市ホームページ:古代都市「伊都国」 トップページ」と掲げるなど、かつての伊都国に由来する地域であることを強調している。

【平原遺跡(ひらばるいせき)】
 1965年発見。福岡県前原市大字曽根(北緯33度32分32秒、東経130度13分41秒)、筑前前原駅東南東4km。
 <福岡県平原方形周溝墓出土品>弥生時代後期、銅鏡40面という一遺構からの発見は他を凌駕する副葬で、国内最大の面径(46.5cm)の内行花文鏡が含まれる。他にガラス製勾玉3個、メノウ製管玉13個、ガラス小玉・管玉・連玉など。</平原方形周溝墓出土品> 
 伊都国王の墳墓とされる。銅鏡と言えば、倭人伝で女王国の使者、難升米に託された下賜品に「銅鏡百枚」が含まれていることの関連が注目されてきた。しかし、今日では全国各地で王の墳墓から発掘された銅鏡は、倭国で作られたという説が有力になりつつある。(後に考察する)

 「怡土」という地方名は、大宝律令(701)の国郡里制から1300年続いているので、遡ってさらにその500年前からその辺りの土地が「いと」と呼ばれてきたとしても不思議はない。(対馬国の項で考察した)だから「伊都国=その後の怡土郡」なのだろう。
 ところで、東夷の一国であるにもかかわらず「都」という破格の良字が宛てられているのが注目される。なんらかの経緯(かつて倭国を代表する地位が与えられていたとか、中国から渡航した民族の末裔であるとか)があるのだろうか。

【陸行五百里】
 末蘆国遺跡と考えられる菜畑遺跡から、平原遺跡までの直線距離は27.1km。1里=76.7mを適用すると354里になる。
 曲線経路(図)を仮定すると、図上で32.3km(408里)なので、「五百里」は妥当な値である。ここはまだ、帯方郡による測量が許可された範囲かも知れない。
 以上のように、呼称・距離・遺跡から「伊都国は後の怡土郡につながる」のは確かだろう。

【東南】
 実際は、平原遺跡は菜畑遺跡から見て「東南」ではなく、東北東にある。方位の問題は倭人伝の解釈の大問題に繋がるので、重要である。
 そもそも、三国時代は方位をどうやって求めたのか。
 羅針盤は中国で発明されたとされるが、発明時期は魏志の時代よりずっと後である。
 <中国古代の4大発明>方位磁針 11世紀の中国の沈括の『夢渓筆談』、正確には「真貝日誌送」にその記述が現れるのが最初だとされる。方位磁針は磁石を自由に回転できるようにしたものである。</中国古代の4大発明>
 それ以前はどうやって方位を決めていたか、推定してみる。
 夜間は北極星を見つければよい。昼間は、地面に棒を立て、影が最も短くなったとき(南中)の太陽が真南であるので、調べようとすれば容易に調べられたであろう。
 距離を歩測する際、方位だけは無頓着であったとは考えにくい。
 伊都国ではこれまでの3国と違って、住民の生活や土地について触れられてないので、直接の見聞に基づく具体的な資料は、倭人伝執筆者(陳寿)の手元にはなかったのだろう。
 だから、距離については過去の歩測に基づく何らかの記録を用いたが、方位については訪問記録ではなく、当時一般的に信じられていた「倭国は北から南向きに伸びている」観念的な地図に従ったと思われる。
 (当時の地図については、邪馬台国への経路の項で改めて考察する)

 もうひとつの可能性は、記録者が方位に全く無頓着であった場合である。末蘆国の海岸線(唐津湾沿岸)は北西から南東方向なので、伊都国に向かう道は、南東方向に伸びている。その後少しずつカーブして次第に東から東北東向きになるのである。だから、伊都国に出発する時点で「東南に進む」のは正しい。ただ、道中が始まってからは、何故か方位の確認しなくなった。
 使者随行の記録官は、自然科学的な厳密さに興味の無い人物だったかも知れない。
 いずれにしても、伊都国以降、行程の記述は専門の職能集団による実測の記録ではなく、当時通用していた観念的な地図によると考えるべきである。

【「至」と「到」】
 到…到其北岸狗邪韓國、到伊都國
 至…至對馬國、至一大國、至末盧國、至奴國、至不彌國、至投馬國、至邪馬壹國
 魏略(翰苑に引用)では奴国以後は欠けているが、それまでの部分は一致している。太平御覧引用の魏志では、すべて一致する。この用法(動詞「いたる」)では「至」と「到」で意味の差は全くない。どちらを使うかは、全くの「たまたま」である。
 「至」と「到」の組み合わせが魏志と魏略で一致していることは、魏志が魏略を忠実に写しながら、他の資料を適宜挿入して作成したことを裏付ける、ひとつの証拠となり得る。
 また本当にどちらでもよかったので、筆写者は「至」「到」を楽な気持ちで筆写した結果、かえって転記ミスがなかったことも考えられる。

【記述の精度の比較】
 ここで、対馬国から邪馬台国までの記述の詳しさを比較して見る。
字数(大)官戸数一辺の長さ地形生活行政
對馬國54卑狗卑奴母離千余戸四百余里17字14字(なし)
一支國45卑狗卑奴母離三千許家三百里(なし)14字(なし)
末盧國31(なし)※1(なし)※1四千余戸(なし)10字18字(なし)
伊都國22※2爾支泄謨觚・柄渠觚千余戸(なし)(なし)(なし)7字
奴國18兕馬觚卑奴母離二万余戸(なし)(なし)(なし)(なし)
不彌國14多模卑奴母離千余家(なし)(なし)(なし)(なし)
投馬國15彌彌彌彌那利五万余戸(なし)(なし)(なし)(なし)
邪馬壹國31伊支馬彌馬升・彌馬獲支
・奴佳鞮
七万余戸(なし)(なし)(なし)5字
 ※1 恐らく、末蘆国も卑狗・卑奴母離なので省略されたと思われる。
 ※2 伊都国のところに書かれている「丗有王皆統屬女王國」(世に王有り皆女王国に統属す)は、後の回に述べるように、対馬国~伊都国の4国の共通事項だと思われるので、伊都国の字数から除外した。

 比較して見ると、韓国から遠くなるに従って次第に情報が乏しくなっていき、最後は大官・副官と戸数だけの記載になる。
 「官の名前・戸数」は、いかにも役所風である。だから、邪馬台国に到着するまでの記述は、行政機関に保管されていた記録に、使者に随行した記録官の手による日誌を付け加えて構成したという雰囲気を感じる。
 実際に記録官が足を運んで書いた資料があるのは、末蘆国までであろう。それ以遠は、伊都国周辺を歩測した古い資料を使ったと思われる。


2011.04.03(日)原文を読む(16) 人好捕魚鰒

人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
人好(よ)く魚鰒(ぎょふく)を捕え、水深浅(しんせん)無く皆沈没(ちんぼつ)し之を取る。

人は魚・あわびを捕えることができ、水の深い浅い無く潜ってこれを取る。

【好(助動詞)】
 <國際電腦>10. 用在某些動詞前面,表示效果好。</國際電腦>(<google翻訳>10. used in front of certain verbs, that effect is good.</google翻訳>)
 <漢辞海>《助動》 …できる。…するのに都合がよい。</漢辞海>
 このように英語の"can"そのもの(「能」も同じ)だが、漢文では「よく~する」と読み下す。

【鰒】
 <漢辞海>1 あわび 2 鮫の別称</漢辞海>ここでは間違いなく「アワビ」。(<余談>鮫は出雲弁では「わに」。したがって、因幡の白兎は鮫をだました。</余談>)

【沈没】「紹煕本」では「沈」の異体字「沉」。
 「水に沈む」ここでは現代の用法のような、否定的な価値観(残念な気持ち)は伴わない。

【海人(あま)】
 <著書「海人」>北見俊夫氏の学説</著書>では、中国南部に起源をもつ「阿曇系」、インドネシアに起源をもつ「宗像系」の漁労民がそれぞれ漁労文化をもって全国に広がったとされる。そこで、「安住氏」、「宗像氏」について調べて見た。
 安住氏の一族は、<wikipedia>「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残され、川を遡って内陸部にも安曇野の地名が残る。</wikipedia>
 また、宗像氏は<wikipedia>古代は海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。</wikipedia>(宗像地方は、北九州市と福岡市の中間にある地域の呼称)
 現代の海女は、鳥羽市・志摩市(三重県)が有名で、調査によると<asahi.com|三重 2010/12/19>三重県内には全国で最も多い973人の海女がいることがわかった。全国の合計は2160人で、三重県が45%を占めた。男性の「海士」は少し減って282人</asahi.com>。
 日本以外では、韓国の済州島で<済州道:韓国観光公社公式サイト>漁村では現在でも海女たちが潜水漁業を行っていることや、土壌が豊かではないため、米はほとんど収穫できず、豆や麦、粟のような雑穀を生産している</済州道>という記事がある。倭人伝の対馬国の記述「無良田食海物自活」と類似しているのが興味深い。

 2009年(平成21年)10月3日、三重県鳥羽市にて「日本列島 "海女さん" 大集合 - 海女フォーラム・第1回鳥羽大会」が開催された。集まった地域を、右の図にまとめた。
 現在の海女は、アワビは代表的な漁獲物。弥生時代の出土物にも、鹿の角で作ったアワビオコシがある。
 (< 青谷上寺地遺跡|アワビオコシ>青谷上寺地遺跡からは、シカの角を加工したヘラのような道具が30点以上見つかっています。これは海中に生息する岩礁性の貝類を捕獲するためのもので、アワビオコシと呼ばれています。</青谷上寺地遺跡>他に「三浦市毘沙門C洞窟遺跡」)
 倭人伝には、対馬国の項でも「食海物」と書かれているから、末蘆国に限らず北九州から対馬海峡一帯で潜水漁の文化があったのは確実である。
 しかし特別に「皆沈没」と書いてあるのは、末蘆国のところだけである。潜水漁の担い手が他の国では一部の部族または職能集団に限られるのに対して、末蘆国だけは広く老若男女が潜っていたのがかなり印象的だったということか。
 さらに「無水深浅」の文から、子供は沿岸の浅いところで、熟練者は船でかなり水の深いところへ出かけて、と条件に合わせて潜った様子が想像できる。ともかく、四千戸の住人のほとんどが沈没する集団は確かに相当のインパクトがある。
 ただし、末蘆国には水田遺跡があり、さらに対馬国・一支国相手に米を売るのだから、一定の米穀生産高があった。では農家は専業だったか、あるいは農漁兼業だったのだろうか。
 さらに疑問。この潜水漁を専らにする一族が、初期の「安曇族」あるいは「宗像族」の実体なのか。また末蘆国が、彼らの中心地であったのか。興味は尽きない。

【魚鰒】
 「魚」について。青谷上寺地遺跡の出土物に骨を使った銛(モリ)もあるので、当然水中で魚に銛を打って捕える者がいた。
 「アワビ」について。現在の海女の漁獲物にはにはサザエ、ナマコ、イセエビ、藻類など数々あるが、美味で高級感のあるためか、代表格は「アワビ」。魏志の時代でも同じ感覚で、「鰒」を代表としたらしい。

【魏略などでは】
[魏略]
 人善捕魚能浮沒水取之
 「善」は形容詞の連用修飾(動詞を修飾する)で、「よく~する」。したがって、「人善く魚を採り、能(よ)く水に浮き没みして之を取る;人は上手に魚を採り、水に浮き沈みしてこれを取ることができる。」また、アワビがない。
[『太平御覧』所引『魏志』倭人章]
 人善捕魚水無深浅皆能洗沉没取之 こちらも「善」で「アワビ」がない一方、紹煕本の「沉」。写本の系統の追跡は、一筋縄ではいかないようだ。


2011.04.02(土)原文を読む(15) 不見前人

草木茂盛行不見前人
草木茂盛(もせい)し、行くも前の人見ず

草木は盛んに茂り、その中を行くと前の人が見えない。

【茂】<漢辞海>《形》植物の成長が盛んなさま 《動》つとめる</漢辞海>
 「しげる」と同時のように訓読みするが、もともと形容詞。動詞としての用法は植物からはなれ、人の行為を表す。
【盛】<漢辞海>《形》旺盛なるさま</漢辞海>
【茂盛】<漢辞海>物事が盛んなさま</漢辞海>
 さまざまな物事に対し、比喩的に使用するが、この場合は主語が草木なので、本来の「植物が盛んに茂る」ようす。

 当時の松浦川河口近くの干潟に、仮に葦(アシ;ヨシともいう)があったとする。葦は、<wikipedia>垂直になった茎は2~6mの高さになり、暑い夏ほどよく成長する。河川の下流域、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原をつくる。</wikipedia>
 そんなヨシ原を横切れば、前の人が見えなくなるのは確かだろう。


2011.03.31(木)原文を読む(14) 濱山海居

有四千餘戸濱山海居
四千余戸有り、山海浜(せま)りて居す。

四千戸余の家があり、山、海にはさまれた狭い土地に居住する。

【唐津の歴史より】
 縄文時代から定住し、長い歴史がある。わが国の稲作は、BC10世紀ぐらいにこの地域で始まったとされる。
[菜畑遺跡]…<wikipedia>縄文時代晩期後半谷底平野には湿原が広がっており、背後の丘陵には照葉樹林が育っていた。 縄文時代晩期後半に入ると谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった。 今から2500年から2600年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていた。弥生時代前期の地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘された。</wikipedia>
 前漢の時代には、大陸との交流があったことを示す遺物が王の墓に豊富に残されている。
[柏崎遺跡]…<唐津市|柏崎遺跡案内板>弥生時代中期中庸[BC200~BC100ぐらい]の柏崎石蔵ではカメ(甕)棺から、触覚式有柄銅剣一本と中細銅矛二本が見つかっています。この銅剣はスキタイ風のもので東京国立博物館に所蔵されており、世界的にも3~4例しかない貴重なものです。</案内板>
[宇木汲田遺跡]…柏崎遺跡の近く。<wikipedia>縄文晩期・弥生時代前期より中期にかけての集落で貝塚が存在し、弥生前期中期の甕棺墓から多鈕細文鏡1、細形銅剣9、細形銅矛5、細形銅戈2、銅釧・勾・ガラス管玉・ガラス小玉などが検出された。鏡地区は大陸舶載の青銅器が日本で最も多量に発見されている。</wikipedia>
 地名には、神宮皇后や、万葉集にもうたわれた佐用姫にまつわる言い伝えにちなんだものがある。
[桜馬場遺跡](さくらのばばいせき)…<日本大百科全書(小学館)>弥生(やよい)時代の甕棺(かめかん)墓地。唐津湾沿いに東西に発達した砂丘上に位置し、1944年に防空壕(ごう)の工事中に偶然甕棺墓が発見された。</日本大百科全書>
 その63年後の2007年、再発見された。発掘されたのは<朝日.com>弥生時代後期のガラス小玉約2千個、ヒスイ製勾玉3個、巴形銅器1個、内行花文鏡、素環頭鉄刀の一部。唐津市教委の話「末盧国を統一したころの王の墓と特定できる」</朝日.com>
 奈良時代ごろ、万葉集にも出てくる言い伝えによる地名もある。
[鏡山]…<wikipedia>神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来する。また別称領巾振山(ひれふりやま)は、「佐用姫が領巾を振って見送った山」による。</wikipedia>
[衣干山](きぬぼし山)…<wikipedia>川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたとの言い伝えことが名前の由来となっている。</wikipedia>
 時代が下って、<wikipedia>文禄・慶長の役の頃、大陸から技術が伝えられたのがきっかけとなり、唐津焼が本格的に始まった。また</wikipedia>1593年(文禄2年)に唐津藩を与えられた寺沢広高は、新田開発に当って海岸沿いに松を植林し、「虹の松原」と呼ばれる名所になった。
 現在、唐津地域(市内のうち、湾周辺部)の人口は78876人(2011年1月1日現在)。

【濱山海居】
 「浜」を名詞「海岸」と訳すと、意味が通じない。「浜」は動詞で、<漢辞海>《動》せまる。[通]瀕 まぢかに臨む</漢辞海>のように、「危機に瀕する」の「瀕」と同じ。
 海・山に瀕するのだから、海と山に挟まれた細長い平地に住居が並ぶ様子を物語る。船上の帯方郡使がいよいよ末蘆国に近づいてくると、山を背にして海岸沿いに並ぶ竪穴式の住居と楼閣の風景を見たことであろう。(同時期の吉野ヶ里遺跡の発掘では、軍事拠点の楼閣などは柱のある掘建て作りであるが、住居は竪穴式であった)
 図は現代の地図であるが、流れがゆるやかな河口は土砂が堆積するので、過去の海岸線は現在よりずっと後退している。仮に桜馬場遺跡・菜畑遺跡が集落の中心だったとすると、実際に衣干山と海岸に挟まれた、南北に細長く続い範囲にぎっしり住居が並んでいた(「居」)のかも知れない。

【有四千余戸】
 菜畑遺跡・桜馬場遺跡周辺、鏡山の南(柏崎遺跡・宇木汲田を含む)に限定して(多くは住宅地)現在の人口を、ネット上の資料を使って調べたところ、19745世帯、50315人であった。四千余戸はその5分の1程度だが、前述のように海岸はもっと山に近かったので、相当密集していたと思われる。
 なお、利用したのは<唐津市|統計情報|町別人口・世帯数>平成23年1月1日</唐津市>のデータ。

【疑問点】
[その一] 末盧国だけ「官曰…副曰…」の文がない。それは、補うべき語句が「官亦曰卑狗副曰卑奴」だからであろう。二度目の「亦」まではよいとして、三度目はもう自明であるとして省略した。
[その二] 「濱山海居」(山海せまり居す)は、語調が悪い。対馬国の「所居絶㠀」(居す所絶島なる)にそろえて、「所居濱山海」(居す所山海せまる)とすべきであるように思う。
 続く「行不見前人」の部分も、本来「所行不見前人」あるいは「不見前人行」のような気がする。
 末蘆国の観察報告者は、形式張った書き方を嫌う性格だったのだろうか。
 あるいは、全く別の理由かもしれない。想像を逞しくすると、<想像>紹興本・紹煕本を刊行する時点で参照した資料に虫食いまたは破損があって、その部分が正確に読めなかった。実は[その一]で「自明による省略」とした部分も、本当は「官曰…」がちゃんとあったのである。</想像>
 ただ、この想像は実証しようがない。それに、自説にとって原文どおりだと都合の悪い部分をすべて「誤り」にしてしまえば何でも主張できるので、とても危険なことである。


2011.03.29(火)原文を読む(13) 至末盧國

又渡一海千餘里至末盧國
又一つ海を渡るところ千余里。末蘆国に至る。

またひとつ、千里余りの海を渡ると、末蘆国に到着する。

【末盧國と唐津】
 魏志「弁辰伝」によれば弁辰12国のひとつに「狗邪國」があり、その後<wikipedia>宋書、日本書紀で「加羅」と表記され</wikipedia>た。
 以来、「唐」(から)は<漢辞海>[日本語用法]三―六世紀ごろ朝鮮半島南部にあった「加羅国」の名が、しだいに朝鮮全体、さらに中国全体に転用され、その呼称となった。</漢辞海>
 その後「から」は、広く海外を指す意味もあり、<参考>明治時代に東南アジア、さらに世界各国の娼館に送られた日本女性が「からゆきさん」と呼ばれた。</参考>
 従って「唐津」は「中国または朝鮮半島へ向かう港」の意味だが、<wikipedia>「唐津」の地名が記述などで現れるのは、豊臣秀吉が1591年(天正19年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城し、1593年(文禄2年)には寺沢広高が唐津藩を与えられたころより後である。</wikipedia>
 唐津は湾内にあり、壱岐島に大変近く、壱岐島―対馬島を経由して半島に渡航できるので出航地として条件がよい。それ故、古代から重要な航路であったであろう。
 そんな立地条件にあった現在の唐津の市域は、<wikipedia>奈良時代初期に編纂された肥前国風土記</wikipedia>では「肥前国松浦郡」に含まれ、その郡衙(こくが;郡の役所)が市内の鏡地区にあったとされる。
 だから奈良時代に定められた松浦郡の中心地が、弥生時代から「まつら」と呼ばれてきて、倭人伝で「末盧」(まつろ、またはまつら)の呼称が当てられ、海を渡ってきた使者が上陸した国だとされるのは、当然であろう。
 また、唐津市内の菜畑(なばた)遺跡は、<wikipedia>日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡である。</wikipedia>
 水稲耕作が発達していたのだから、対馬国・一支国が交易し、米を買い入れていた(「市糴」)という記述が課す条件にも合う。
 さらに、できれば現在の唐津市域から壱岐島の原の辻遺跡のように、大陸との交流を示す遺物やの役所跡、さらに船着場の跡が発掘されれば最高の裏づけになる。だが、今のところそのような報告は見つけられなかった。今後もし発見されれば、大ニュースとなることだろう。


【千餘里】
 壱岐島原の辻遺跡(北緯33度45分33秒、東経129度45分10秒)と、唐津市菜畑遺跡(北緯33度26分55秒、東経129度57度28秒)の直線距離は39.4kmで、これまで通り1里=76.7mを適用すると、513里となる。
 今度は、「千余里」より相当短い。帯方郡から離れるにつれ、里程の信頼性が低下していく印象は否めない。
 そもそも海洋航海は歩測がなく、緯度差が0.5度程度だと北極星の高度を高度計(例えば、分度器と分銅による器具;後述)で測っても明確な違いが出ず、航海に要した日数や目視による島の大きさで推定せざるを得ないだろう。
 それでも、人々が来訪する頻度が多ければ数値が平均され、それなりに精度が上がってくる。しかし、遠隔地になるほど訪れる人も少なくなり、どうしてもデータ不足になる。
 その結果、「AB間・BC間が確実に千余里であることが分かっているが、CD間は分からない」という場合は、「同様な感じで海を渡るのだから、CD間も千余里にしておこう」ということになりそうである。
 たぶん帯方郡から対馬国への来訪はかなり多い。一支国へはそれよりは減少する。末盧國までとなると、もうめっきり少なくなっただろう。
 これまでは対馬国、一支国は南北間の中継貿易によって利益を上げ、米を得ていると見てきた。とすれば、朝鮮半島の関係者が対馬国・一支国に来る機会はありそうだ。同様に北九州諸国からの対馬国・一支国訪問もあっただろう。しかし、島を経由し完全に海峡を横断する者は、殆どいなかったのではないか。(それこそ外交使節ぐらいか)


<参考>
 簡単な緯度測定器の作り方を図に示す。「緯度=その地点の北極星の高度」は、鉛直線と北極線への視線の垂線が作る角を測ればよい。
 筒は長いほど精度が上がる。また前後にレンズをつけて望遠鏡にすると見やすくなるが、さすがに弥生時代にはレンズはなかっただろう。
 なお、測定は、①1度のめもりの10分の1まで目分量で読み取り、10回程度繰り返して平均値を求める。②予め緯度が分かっている地点で測定し、実測値との差から補正値を求めておく。これで0.2度ぐらいの精度を期待したい。
 ただし、古代中国または海洋民族に地球が球体だという観念は多分なかったと思うので、緯度に相当する数量をどういう単位で表したか知りたいところである。

※北極星をカシオペア座または北斗七星(おおぐま座)から見つける方法の説明図は、「北極星の見つけ方」を参考にさせていただきました。

<付記>
 なお、唐津市柏崎遺跡からは、前漢時代(BC206~8)ごろの「連孤文日光銘鏡」やスキタイ(南ウクライナ、BC8世紀~BC3世紀)様式の「触角式有柄銅剣」が出土しており、王が女王国に服属する以前に大陸との直接の交流があったようだ。「旧百余国漢時有朝見者」のひとつの例かも知れない。


2011.03.27(日)原文を読む(12) 亦南北市糴

多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
竹木(ちくぼく)叢林(そうりん)多し。三千許(ばか)り家有り。田地(でんち)耕田に差有り、猶(なお)食するに不足し亦(また)南北に市糴(してき)す。

樹木のほか竹も生え、うっそうと茂る林が多い。約三千軒がある。よく耕され収量の多い田とそうでない田に差がある。依然として食糧は十分でないので南北に[乗船し]商いをし、米を買い入れる。

【竹木】
<大辞林>樹木と竹。樹木だけでなく竹も含まれることを明らかにしようとする場合に用いられる語。</大辞林>
<日本国語大辞典>〔名〕竹と木。</日本国語大辞典>
<漢辞海>(項目なし)</漢辞海>

【叢林】
<大辞泉>1 樹木が群がって生えている林。「―地帯」</大辞林>
<漢辞海>やぶや林</漢辞海>
なお[叢]は、<漢辞海>むらがる</漢辞海>

【三千許家】
 "許"は"可"と同様に概数を示すが、"可"は、「可三千里」と数詞の前につけるのに対し、"許"は数詞と量詞(数える言葉)の間に挟む。
 各国邑についての記述で、戸数は「戸」で数える場合が多いが、一支国と不弥国だけ「家」が使われる。特に使い分ける理由はないと思われるので、報告書(倭人伝執筆で参照した資料)の作成者が別の人物かも知れない。
 <壱岐市|市政資料>平成17年(2005年)10月1日現在人口31414名、10560世帯。<壱岐市>従って世帯数は現在の3分の1程度。現在は1世帯あたり3名ぐらいだが、1955年は約5名だった。弥生時代も5名程度とすれば15000人ぐらいになる。

【田地】
<大辞泉> 田となっている土地。「―地帯」</大辞林><漢辞海>田畑</漢辞海>
【耕田】
<大辞泉> 耕作を行う田地。</大辞林>

 田地・耕田と同じような意味の言葉を並べた理由は語調を整えるためとも見られるが、「田畑になり得るが地味が乏しい土地」と「豊かな収量が得られる田畑」との使い分けがあるかも知れない。
 しかし竹木・叢林もそうだが、意味が重複する言葉を並べて表現がくどいので、簡潔を旨とした対馬国報告とは対照的である。量詞「家」のところでも述べたが、報告者が異なるかも知れない。
 ただし、「猶」以下は対馬国との対比を明瞭にして論理的である。

【猶】
<國際電腦>9. 副詞。②表示某種情況持續不變。相當於「仍」、「仍然」。</國際電腦>(その種の状況が持続したり変わらないことを表す)
 つまり「良田がない対馬国よりは多少米が獲れるが、土地の条件によって収量に差があり相変わらず食糧は不足する。」

【亦】
 「対馬国と同様」南北へ乗船し市糴する。

【南北市糴】
長崎の遺跡大辞典|原の辻遺跡
 台地を三重の環濠が巡る大規模環濠集落であることが判明した。また、1996年には大陸の土木技術の影響を受けて作られた東アジア最古の船着き場跡の遺構が検出され注目された。これまでに出土した遺物は膨大な量にのぼり、国内各地の遺物はもとより、大陸、朝鮮半島系の遺物も金属器や土器など多種多量である。
</長崎の遺跡大辞典>
<wikipedia|原の辻遺跡>1995年(平成7年)に一支国の国都であると特定された。</wikipedia>
<wikipedia|古代出雲>
 中国の植民地で朝鮮半島北部にあった楽浪郡(紀元前108年 - 313年)との交流があったと考えられている。壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示す。より直接的な例としては、弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明している。
</wikipedia>

 対馬国同様、大陸と倭国の間の中継貿易によって米を得ていた可能性がある。また「大陸の土木技術の影響」は極めて注目される。対馬国などと共に帯方郡と倭国の本体に挟まれた緩衝地帯として、二重支配を受けていた可能性が否定できない。
 また出雲国、一支国、楽浪郡の活発な交流は、日本海側に航海路が確立していたことを意味する。
<余談> なお、出雲国で2世紀前半の「すずり」が出土したのは、邪馬台国の時代に字を書く文化が存在した可能性があることになる。</余談>


2011.03.25(金)原文を読む(11) 至一大國

至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
一大国[一支国]に至る。官亦(また)卑狗(ひこ)と曰(い)い、副を卑奴母離(ひなもり)と曰う。方三百里可(ばか)りなり。

一支国に至る。官をヒコ、副官をヒナモリと言い、[島の]一辺は概ね300里である。

【一"大"國と一"支"國】
 第10回で引用したように、魏略には「一支國」とあること、現在使われている「岐」の文字は山扁+「支」で、現在まで伝わる呼び名も「ダイ」ではなく「キ」であることから、もともとの倭人伝には「一支國」であったことが推定できる。
 少し離れた箇所にある「一大率」の影響で誤りが生じたのだろうか。「対海国」の場合は、その前後に文字「海」が頻繁に使用されていた。

【官亦曰】
 「亦」は、<國際電腦>2. 副詞。相當於「又」、「也」、「不過」、「皆」、「已經」、「的確」。</國際電腦>
 「又」は、第10回で見たように、<國際電腦>幾種情況或性質同時存在</國際電腦> つまり、「同じような条件のところに、~もまたある。」を意味する。
 ここでは、「対馬国の大官は卑狗、副官は曰卑奴母離であったが、対馬国でもまた同様である」と言っている。これらが個人名ではなく、役職名である可能性については第8回に考察した。
 なお、対馬国の「大官」は、以後「大」が除かれ「官」になる。しかし対馬国の官だけ、地位が特に高いとは思われない。
 魏略には、至一支國置官与對同(一支国に至る。対馬国と同様の官を置く)とあっさり書かれている(この方がわかり易い)ように、「官」は「大官」と同じである。

【方可三百里】
 方が「一辺」なのかそれとも「周囲の全長」なのか、対馬国と同様の方法で調べる。

 現在の壱岐島の地理:
壱岐市|平成21年度版統計資料|地形・気象
 東西約15km 南北約17km
 面 積( )内は属島含まない ※平成21年10月1日現在 138.56k㎡(133.92k㎡) 
 周囲(属島含む) 約191km
 最大標高      212.9m(岳ノ辻)
</壱岐市|統計資料> 
「周囲」は海岸線を忠実に測っているので、図のように大まかに折れ線で表したときよりも長い。
 <余談>海岸線は正確に測ろうとするほど、細かい出入りが積算されるので、無限に長くなる。</余談>
 なお最大標高は、第5回ではうっかり女岳の149mを用いたので、図を訂正しなければならない。

 計算の結果、「方」を周囲と見做すと短かすぎ(半分以下)て実際に合わない点は、対馬国と同様である。
 しかし、島(属島を含む)を等積変換した正方形の一辺(赤色)は153里なので、倭人伝の「300里」よりかなり小さい。むしろ、属島を含め南北端を一辺とする正方形(緑色)246里を採用し、「余」抜きの三百里だから内輪の値から切り上げたと見れば、それらしい値になる。
 だが、対馬国では等積変換と解釈し、他方、一支国では外接正方形だと解釈するのは二重基準に陥る。だから残念ながら、対馬国の素晴らしい精度は偶然であったと見做さざるを得ない。
 とは言え、次の程度のことは言える。即ち、「『方』は周囲の全長ではなく、大まかに正方形に直したときの一辺の長さを意味している。数値的には実際より20~40%ほど大きめであるが、ある程度は実測に基づいている。」

 なお、対馬国「可四百余里」は「四百里」が「可」と「余」によって二重形容され、一支国の「可三百里」に「余」がないのは不統一である。
 ことによると、「四百余里」の「余」は後世に付加されたのかも知れない。はじめは「三百里」同様「余」はなかったが、それまでの里数にはどれも「余」がついていたので、後世のだれかが「ここは付け忘れだ」と判断して付け加えた。(ではなぜ、「三百里」はそのままにしたか?となるが)
 どちらにしても、「可」「余」は
<仮説>
 切り下げ・切り上げを意味する。「可」はもともと「~と見做すことができる」意味なので、端数を切り上げた結果を示す。逆に切り捨てた場合は「余」を付加する。ただし、「可」と共に「余」があるときは、「可」は単純な推量「ばかり」を意味する。
</仮説>
 それによる次の解釈は、自分でも行き過ぎだと思うが…
<行き過ぎた解釈>
 対馬国「方可四百余里」は「概ね一辺四百数十里である。」一支国「方可三百里」は「一辺二百数十里である。」
 この解釈によって、記述による二島の比率(1.8:1)は、実測による二島の比率(2.25:1)にだいぶ近づく。
</行き過ぎた解釈>
 それにこの解釈では、四百余里の"余里"を相当大きくとるので、対馬国のところで自ら述べた「当時、相当の面積測定技術があった」説を不利にする。

 因みに魏略ではそもそも対馬国には里数の記載がなく、一支国に記載があるが「地方三百里」(その地は一辺三百里)と概数表記がない。


2011.03.24(木)原文を読む(10) 名曰瀚海

又南渡一海千餘里名曰瀚海
又南へ一海千余里を渡る、名は瀚海(かんかい)と曰う。

再び南へひとつ海を渡る。[その海の]名を瀚海という。

【又】
 <漢辞海>ふたたび さらに</漢辞海>
 <國際電腦>①相當於「再」、「而且」、「却」。②表示動作的重復或繼續、幾種情況或性質同時存在、整數之外再加零數、補充申說。</國際電腦>
 を読むと「②重複した或いは継続する動作、いくつかの状況や性質が同時にあることを表す」の説明はなるほどと思わせる。ここでは「再」が適当である。
 ここまでの「一海を渡る」の記述を比較して見る

  始 度一海(至対馬国)…最初に大海を渡る。
  又南渡一海(至一支国)…再び大海を渡る。

 「始」と「又」の対応によって順序関係が明確になる。
 また「始度」では方角が明示されなかったが、「又南渡」によって、始めに対馬へ向かったのも南向きであったことが示される。

【渡・度】
 「渡」<國際電腦>1. 過河;通過水面。 2. 通過;跨過。</國際電腦>となっているので、現代日本語の「渡る」と同じ意味であることがわかる。
 「始度一海」の「度」は、<國際電腦>29. 通「渡」。 30. 通「鍍」。</國際電腦>に示された通り、「渡」と同じ。「度」自体は非常に幅広い意味がある。

【千余里】
 長崎県の遺跡大辞典から、対馬島と壱岐島の倭人伝の記述に関係する有力遺跡の位置を調べる。
 [対馬島] 塔の首遺跡(北緯34°39′37″ 東経129°28′13″)
 [壱岐島] 原の辻遺跡(北緯33°45′33″ 東経129°45′10″)
 以上2点間の直線距離を求めると、103.43km
 1里=76.7mを適用して換算すると、1350里
 実際の航路は曲線になるので、大雑把に3割増しとすると、1760里となり、一応「千余里」の範囲内になる。
 ただし「魏略」にはこの距離が記載されていない。①他に資料があり、そこには距離が書いてある、②一般的に3区間とも「千余里」とされていた、③3個の航路とも形式的に「千余里」に揃えたなどの可能性がある。


【瀚海】
 固有名詞「瀚海」は、<漢辞海>バイカル湖、ゴビ砂漠</漢辞海>。「瀚」自体は形容詞。<漢辞海>広大な</漢辞海>。
 また、<國際電腦>1. 廣大貌。 2. 古代北方海名。 3. 洗滌。</國際電腦>。3.は「灌漑」(かんがい)の「灌」の代用らしい。
 1.と2.による「古く北にあると言い伝えられた『廣大貌』(広大な様相)な海」という説明からは、想像力が掻き立てられ、次の仮説が思い浮かぶる。
<仮説>
 漢の時代、蔑称で呼ばれた周辺民族(北狄・西戎・南蛮・東夷。ただし、具体的な民族名は時代と共に移り変わる)の遥か彼方にあると信じられていた広大な海を指す。
 現代人が世界地図を見れば、バイカル湖は内陸の湖であるが、沿岸に立てば対岸は見えないので大陸の果ての大海と感じることであろう。
 また、ゴビ砂漠が広がる光景は、確かに大海に例えることができる。
</仮説>
 では、対馬海峡はどうか? 第5回で述べたように、対馬国から船を漕ぎ出すとしばらく一支国を見ることはできないので、ここが「東夷にある広大な海」に当てはまるのは確かである。
 しかし、手元の辞書には「現在の対馬海峡付近の海」という訳は載っていない。また「魏略」にもないので、固有名詞として通用していたのか、何かの事情でこの部分に紛れ込んだのかは不明である。

<参考>
 ◎2点間の直線距離
 (北緯N1度、東経E1度)、(北緯N2度、東経E2度)の2点間の距離=L√( (N1-N2)2+(E1-E2)2cos2((N1+N2)/2) )
 L=北緯1度の距離(111.1km)
 まずは緯度、経度を少数に直す。北緯34°39′37″=(34+39÷60+37÷3600)°=34.66027778°etc.
 それらを公式に代入する。

 ◎魏略(翰苑による引用)の関係部分の記述
 始度一海千餘里至對馬國 紹煕本「對海國」が誤りである可能性がさらに増大する。
 其大官曰卑拘副曰卑奴  卑奴:「母離」が脱落。
 無良田南北布糴     布:「市」の誤り。
 南度海         度:「渡」は「度」で統一。「千余里」の記述はない。
 至一支國        支:逆に倭人伝の「一大國」が誤りか。


2011.03.22(火)原文を読む(9) 南北市糴

有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
千余戸有り、良田無く海物(かいぶつ)を食し自活す。乗船し南北で市糴(してき)す。

戸数千余り、満足な田はなく海産物を食する。自らの生存を求め船に乗り、南や北で商いをし米穀を買い入れる。

【有千餘戸】
 参考のために、現在の世帯数と比べて見る。2005年の国勢調査では、全島で世帯数38481世帯、人口14710人。弥生時代の遺跡が多い峰町は、人口2575名、世帯数984世帯。
 だから、「千余戸」が正しければ、合併前の6町のうちの、ひとつ分ぐらい住んでいたことになる。
 弥生時代の住居跡:
 <対馬一口メモ
 昨年[2000年]、峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘(中略)対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡
 </対馬一口メモ>

【無良田】
 現在でも、<対馬一口メモ>総面積709平方キロメートルの面積の大部分は山地で占められ、耕地となる平地は全体の約3%に過ぎません。</対馬一口メモ>
 <wikipedia>九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。北部九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくが、対馬では河川や低平な沖積地に恵まれず、水田を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても狩猟や採集・漁労などの生業が依然として大きな比重を占めたものと推定され、イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。</wikipedia>
 従って水田は、ごく狭い面積しかとれなかったと思われる。

【海物】
 熟語として取り上げている辞書もある。<日本国語大辞典>〔名〕海中から産するもの。海産物。また、海中で生きる動植物。</日本国語大辞典>
 <漢辞海>(項目なし)</漢辞海>

【自活】
 <漢辞海>自らの生存を求める</漢辞海>。<対馬一口メモ>この[鰐浦から望む]海域は、古来海の難所として知られ</対馬一口メモ>とあるように、厳しい航海によって交易して食糧不足を打開し、生き抜いている様子を物語っている。
 
【南北】
 文法的には名詞が連用修飾語化して、動詞「市糴」を修飾する。南は倭国、北は韓国を指すのは明らか。

【乗船南北市糴】
 弥生時代の出土物:
 <wikipedia>対馬北部の集落遺跡塔の首遺跡(対馬市上対馬町)では、石棺の内外に朝鮮半島系および中国系のもの(方格規矩文鏡・銅釧・陶質土器など)と北九州系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている。</wikipedia>
 <wikipedia>大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く発見されている</wikipedia>。
 <遺跡と古墳 蘭と絵手紙/対馬市
 佐保シゲノダン遺跡―銅矛・銅剣・双獣付十字形把頭金具・粟粒文十字形柄頭金具・馬鐸・貸泉
 峰町三根遺跡、山辺遺跡(遺跡の主体は弥生時代中期後半から弥生後期終末まで)―竪穴式住居、高床式住居の柱穴、遺跡は縄文時代終末期(BC4)の土器から7世紀までの土器が断絶することなく出土している。韓国南岸の土器。
 ガヤノキ遺跡、上ガヤノキ遺跡、下ガヤノキ遺跡、弥生時代から古墳時代中期―三根湾岸一帯の首長墓的遺跡。箱式石棺墓10基・特殊埋納土壙2基・深樋形細形銅剣・ガラス玉・刀子・管玉・鉄剣・土器・韓国の土器。須恵器(上ガヤノキ遺跡、2号箱式石棺墓)。鉄鏃(上ガヤノキ遺跡)。
 </遺跡と古墳 蘭と絵手紙>
 
 遺跡の近くの湾が船着場になっていたと思われる。木製遺物は水中で保存性があり、元寇の遺物は鷹島の南岸の海域で引き上げられている(遺物実測整理|水中考古学)
 また、古代の巨石運搬具「修羅」は<藤井寺市|修羅の話>常に地下水が供給され、修羅は水漬けの状態に保たれていたため、今日まで保存されてきた</修羅の話>。
 水中で800~1600年間保存されるのなら、1800年間でも可能に違いない。いつか古代船の遺物が、どこかの水中から発見されることを期待したい。


【市糴】
 市=あきない。
 糴=<漢辞海>米や穀物を買い入れる</漢辞海><國際電腦>買入糧食。與「糶」相對。</國際電腦>
 糶=<漢辞海>米や穀物を売りに出す</漢辞海><國際電腦>賣出糧食。</國際電腦>

 さて、対馬の住民は、倭国や韓国で何を米と交換したのか。
 <仮説>
 ① 対馬の特産品(真珠、香辛料、鹿の皮、干しあわびや鹿の干し肉?)。
 ② 韓国の鉄製品などと倭国の絹や真珠などを中継貿易。
 </仮説>
 1000余世帯の漁労や採取で、自ら食す以上に米との交換に回すだけのものが得られたであろうか? だから、①が成り立つかどうか分からない。
 しかし②は、前述「古来海の難所として知られ」る海域を他の国にない優れた航海術で縦横に行き来し、両地域で交易品を米と交換できるので、なかなか有利に思える。
 記録官は、活発な中継貿易を「市」、それによって大量の米を得るようすを「糴」と表したのかもしれない。
 仮説の裏づけとなる資料の発見は難しそうである。しかし、推定できないだろうか?
 推定の方法:対馬国、対馬藩の中世の中継貿易の記録を古文書から拾い上げる⇒適当なパラメーターを仮定し、遡って西暦200年ぐらいの貿易の規模と品目を推定する⇒北九州及び畿内と韓国の出土品と突合せ、辻褄が合うかどうか調べる。
 古代史を選考する学生だったら、卒業論文で取り組んで見たいようなテーマである。

【倭人伝の罠】
 以上対馬国に関する記述は、その姿を簡潔・明瞭・的確に表現する名文である。間違いなく対馬国であると思わせる。しかし、そこに罠がある。対馬国の記述のような、この上ない信頼性が、倭人伝全体に貫かれているわけではない。
 倭人伝の原資料は間違いなく複数あり、魅力的な紀行文、行政記録文書、伝聞、荒唐無稽な伝説が混在している。対馬国の記述から得られた信頼をうっかり他の部分にも寄せると、混乱と錯誤に陥るのである。


2011.03.20(日)原文を読む(8) 土地山險

土地山險多深林道路如禽鹿徑
土地、山険しく深き林多し。道路は禽鹿(きんろく)の経(みち)の如し。

土地は山険しく、深く茂った林が多い。道路は、鹿などの獣が通る小路のようである。

 ※主語S、述語P、目的語Oと略記する。
【土地山險多深林】
 土地は、<漢辞海>土壌、領土</漢辞海>の用例があるので、今日の日本語の「土地」と同じ。
 文法的には悩む。続く「山険」にS=山、P=険の関係が成立している。ではその前の「土地」は何か?
 日本語なら、「今日は天気がよい」など、主語が一見重複する文は普通である。その感覚で「土地山険」は「土地は山が険しい」と抵抗無く読める。でも漢文もそれでよいのか。
 そこで、漢辞海の「漢文読解の基礎」を読むと、修飾構造で[連体修飾](名詞を形容)や、主語の並列構造がある。修飾なら「土地[之]山」(土地の山)、並列構造なら「土地[与]山」(土地と山)になる。
 続く「多深林」は主語が省略されている。ただ「土地」または「土地山」が前文と共有された主語にも読める。
 中国語の文法は、自分のこれまでの理解の通り、中国語には格変化や格助詞はなく、主語・動詞・目的語は語順で決まり、修飾は必ず前置である。
 また主語は省略され、目的語が事実上の主語になることもある。だから「多深林」は「多」は形容詞のままでP、英語のように繋辞("deep"など形容詞を述部"are deep"にするときのbe動詞)は必要ない。「深」はO「林」を修飾する。なお、<漢辞海>【深林】奥深く茂った林。</漢辞海>

【山険】
 まだ対馬を訪れた事はないが、地図で見ると実際に険しい山ばかりで平地が少ない。

【禽鹿】
 國際電腦と漢辞海によると、「禽」はもともと獣全般を指したが、次第に鳥全般を指す言葉に移り変わってきた。
 獣(と鳥)の総称と特定の種(正式には"科")「鹿」を連結した熟語は何を意味するか。
 改めて漢字熟語について勉強してみた。分かったのは、<wikipedia>漢文において熟語と称される表現は、それ自体が複数の単語が並んだ連語表現とみなすことができ</wikipedia>るとあった。つまり熟語になっていても、構成する各漢字固有の意味が生きている。
 英語の場合は、熟語を単語に分解してそれらを合成しても、異なる意味になることが多い。しかし、漢文は分解してよいのである。前述の「SPOの語順は揺るがない」と共に、有力な武器となる法則を確認することができた。
 「禽鹿」にその法則を当てはめると、個別の生物種「鹿」としての意味も残っていることになる。つまり「いろいろな獣、たとえば鹿」の意味か。
 ちなみに、鹿は対馬に生息していて、<対馬一口メモ>ツシマジカは、やや小型のキュウシュウジカと大型のニホンジカの中間ぐらいの大きさで、学術上も貴重なシカとされ</対馬一口メモ>る。
 以上のように熟語の意味に悩むことがあっても、文意「人の通行する道なのに、ほとんど獣道である」は、明快に伝わってくる。

【徑】
 國際電腦で最初に書いてあるのが「小路」。(「径」には他に「直径」などの意味もある)

<備考>
 野鳥通信…対馬からの<対馬一口メモ>は、対馬の地理や歴史が要領よくまとまり、とても参考になります。


2011.03.18(金)原文を読む(7) 方可四百餘里

所居絶㠀方可四百餘里
居(きょ)す所絶島にて、方四百余里可(ばか)りなり。

人々が住む所は隔たった島で、一辺概ね400里余りである。

【所】
 國際電腦漢字及異體字知識庫(以後"國際電腦")では、最初に書いてある意味が「伐木聲」(Lumbering sound=木を切り倒すときの音)であるのは興味深いが、中心的な意味はもちろん場所、地位などである。
 三省堂「漢辞海」によれば、もうひとつ重要な用法「動詞または動詞句の前に置き体言化する」の説明がある。英語のto不定詞の名詞的用法、または関係代名詞whatに相当するか。

【居】
 國際電腦では、ほぼ動詞「住む」「留まる」名詞「住居」。in、is(=為す)のような抽象的な用法もある。 

【所居】
 それぞれの文字のもともとの文字の意味や、文の前後関係から、「住民が住むところ」、「暮らすところ」(=[the place ]where they live)ととるのが一番自然である。
* しかしこの解釈の不具合は、動詞が消失するところにある。
* 続く「絶」は、「断絶する」意味の動詞になりうるが、これを動詞にしたのでは全く意味が通じない。ここの「絶」は明らかに形容詞で「(大陸や他の島から)隔てられた」意味をもって、「島」を修飾する。
* 日本語は動詞がなくても平気であるが、漢語は名詞の格変化や動詞の人称変化がないので厳格に語順(SVO型)を守り論理的に組み立てられる。英語も、格変化が退化しているので語順で格を表す。<余談>対照的にラテン語は格変化、人称変化が非常に多様なので、語順は自由であるし、主語の人称代名詞は強調したい場合以外省略される(動詞の人称変化でわかるから)</余談>
* ましてや、日本語のように動詞を持たない文がしばしば出てくるなど、とんでもないことである(はずだと思う)。だから原型の文「所爲絶㠀方可四百餘里」の「為」を「人々が居住する」という気持ちを込めて「居」に置き換えたものである。(the place is ~ と解釈)。
* [専門家から見ればとんでもない説かも知れないが、将来もし間違いだったことがわかったらその時点で訂正させていただきます]
<3月20日付記>
 その後「名詞はそのまま動詞化して述部になることができる」ことが分かったので、訂正する。
(正) 主部=「所居」。述部=「絶島」と「方可四百餘里」が併置される。
(誤) '*'をつけた行。恥ずかしいが、私自身の探求過程を示すものとしてこのまましばらく残しておく。
</3月20日付記>

【絶島】
 「絶」は、國際電腦ではごく簡単に「 斷、隔開。」(断つ、隔てられた)だけ。前項で述べたように、「(大陸や他の島から)隔てられた島」と見られる。日本語の「絶海の孤島」という表現と似ている。高くそびえる崖を「絶壁」というので、「絶島」に「そびえ立つ山島」という意味も含むかもしれない。

【方】
 國際電腦によると、もともとは「2艘の船」で、名詞では「方形。與『圓』相對。」(四角形、「円」に対して)などがある。漢辞海でもほぼ同じ。たくさんある意味のうち、ここでは「周囲」または「一辺」のどちらかであるのは間違いない。

【可】
 ほぼ日本語の「許可」「可能」などの意味。動詞で「~とすることができる」(可(べ)しと読む)。
 ここでは副詞「概ね」。

【方可四百餘里】
 [方を一辺と解釈した場合] 1里=76.7mを適用すると、400里=30.7km。これを一辺とする正方形の面積は942k㎡になる。実測面積は対馬島とその付近の小さな島を合計して708.66k㎡(正方形に直すと一辺26.6km)。
 従って方を「同じ面積をもつ正方形の一辺の長さ」とすると、図のようになかなか正確な値になる。
 [方を周囲と解釈した場合] 実際の周を求めて見る。海岸にいくつか代表点をとり折れ線で結ぶと196.6km(=2563里)、大まかに楕円で囲むときの円周は302km(=3940里)であり、四百余里の6~10倍ほどある。
 仮にこの部分だけ短里でなく、長里(400~500m)を使用したものと解釈すれば、海岸折れ線方式で491~393里、楕円囲み方式で752~601里となり、「400余里」に妥当性がでてくる。
 これが正しいとすると、帯方郡から北九州諸国までの記述に短里と長里が混在していることになる。しかし文調にかなり一貫性があり、途中で異種の資料を挿入して構成したようには見えない。
 さらに、後から「問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里」という表現が出てくる。これは、女王国の支配する島を離れ、海洋に散在する島々を大きくくくったときに、取り囲む周の長さを意味する。
 だから、周囲を意味する場合は「周旋」、一辺を表す場合に「方」という使い分けをしているのではないか。
 付け加えれば、今日でも広さを表す「○○キロメートル四方」という言い方がある。また「方可~」は、「正方形に直せば、一辺は~とすることができる」と読み取ることができる。
 だとすれば、面積を、坪や平方メートルなど単位面積の倍数で表現する代わりに、等積で変換した正方形の一辺の長さで表していたことになる。
 今でこそ「面積=楯×横」だが、これは単位面積1㎡などを定義し、倍数による表し方である。その面積と同じ面積をもつ正方形を考え、その一辺をもって面積と定義しても何も不都合はない。面積について、このような表記法を用いていたのではないか。
 (今日の表し方による面積を、その平方根をもって表す。例えば、面積25k㎡を「方5kmの面積」と表す) 
 とすれば、朝鮮半島域内と同程度に正確に対馬国内の歩測が実施され、さらに平方根の知識があったことになる。これは驚きであり、信じがたいところもあるので、他の可能性も挙げてみる。
 ① この部分だけ長里法を使用している。(これは先に述べた)
 ② 短里で計測した「周囲」の意味であったが、特に根拠はなく、単なる印象だけの値で、実際の寸法はそれよりかなり大きかった。
 ③ 短里で計測した「一辺」の意味であったが、実は直感による数値で、偶然実測値に近かっただけである。
 しかし、帯方郡から対馬国までの距離の精度から見て、①のように突然単位が変わったり、②③のようにここでいい加減な数値の扱いになることは考えにくい。
 数値については、これから後も注意深く見て行きたい。


<備考>
 「方」が「周囲」である可能性もあるので、地域をおおまかに丸く取り囲んだときの円周を試しに計算で求めた。その過程を述べる。
 楕円で対馬を囲む図は、対馬島の地図をMicrosoft Office Picture Manegerで一時的に回転して軸をy軸方向に合わせ、Paintで島を囲む楕円を描画し、再び回転して向きを元に戻した。長径、短径はPaintで図を開き、表示される座標と、縮尺表示を使って計算した。
 楕円の円周は、円の斜投影だから長径、短径と円周率から簡単に求まると思ったらとんでもない話で、第二種完全楕円積分というとんでもなく高度な計算が必要であることがわかった。
 円周=直径×3.14は小学校から習うのに、楕円の円周公式を学んだ記憶がない。学んだことを忘れたのではなく、大変過ぎるから教えなかったのだ。
 第二種完全楕円積分 E(k)=∫0π/2√(1-k2sin2θ)dθ
 ここでkは離心率√(1-(b/a)2)
 実際の計算はテーラー展開によって近似値を求める。得られた値は長径a=1である楕円4分の1周に相当するので、4a倍すれば円周になる。
 先ほどの対馬の地図の右の場合、長径=70.6km、短径=18.5kmから離心率=0.9651。
 楕円積分を数値計算できそうなサイトを検索したら、計算機のカシオ制作の「楕円積分 - 高精度計算サイト」というなかなか便利なものが見つかった。
 そのkeisan.kasio.jp>特殊関数>楕円積分を利用して計算。
   E(k)=1.070、1.070×4×70.6km=302km=3940里
 それにしても、正円と楕円の面積の計算は同程度の計算(πr2とπab)なのに、円周の場合正円と楕円で計算の難易度に極端な違いがあるのが驚きである。
 このようにして数値は得られた。結果的に「方四百里」が周を意味する可能性が低くなったので、せっかくの努力がもったいない気もするが、徹底的に追究するのはなかなか気持ちのよいものである。
 それにしても、20年も以前なら何日も図書館に通ってやっと目的に達したものが、ネットで検索すれば本当に短時間に効率よく到達できる。将に隔世の感がある。


2011.03.13(日)原文を読む(6) 曰卑奴母離

其大官曰卑狗副曰卑奴母離
其(そ)の大官を卑狗と曰(言)い、副[官]を卑奴母離と曰う。

その大官を日子と言い、副官を夷守と言う。

【其】
 指示語、対馬国を指す。

【卑奴母離】
 「副を卑奴母離と曰う」は対馬国に限らず、一大(支)国、末盧国、奴国、不称国に共通する。従って個人名ではなく職名と解釈するのが自然である。(個人名と見られる箇所もあるが、この点は後ほど考察する)
 「ひなもり」とは「ひな」に対する「もり」。つまり、辺境の国を監督するため邪馬台国から派遣された官の職名かも知れない。この考えが妥当かどうかを調べてみる。
 まず「ひな」について。今でもいなかを「鄙びた~」と形容する。改めて意味を調べてみると、
<大辞林(Web)>ひな 【鄙】[1] 都から離れた土地。いなか。―にはまれな美人  [2] 支配の及ばない未開地に住む人々。えびす。四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)―を平(む)けたる状を以て奏す〔出典: 日本書紀(崇神訓)〕</大辞林>
とある。
 次に「もり」。「もり」は、何といっても奈良時代の万葉集の「防人(さきもり)歌」で有名な「さきもり」が思い出される。関を守るのは「関守」だし。灯台に住み込んで保守にあたるのは「燈台守」である。
 だから、「もり」は一般的に派遣された場所を警備したり、現地の行政を取り仕切ったりする役職である。
 以上から「ひなもり」はやはり「都から遠く離れた国邑に派遣されて、防衛または監察にあたる役職」の考えてよさそうである。

 さらに掘り下げてみる。
 <Wikipedia>「夷守」(ひなもり)は、古くは辺境の地を守る人や場所、その役目を指し、都から遠くはなれた国の治安防備の上で重要な地に置かれていた。越後国(新潟)頸城郡(「比奈毛里」)などいくつか確かめられる。</Wikipedia>
 次に発見したのが『古事類苑』。電子化されて公開されていた。
 これは、「明治政府の一大プロジェクトとして明治12年(1879)に編纂がはじまり、明治29年(1896)から大正3年(1914)にかけて出版された、本文1,000巻、和装本で350冊、洋装本で51冊、総ページ数は67,000ページ以上、見出し数は40,354項目におよぶ大百科事典である。」
[日向国]
 <古事類苑p.1157>〔日本書紀〕天皇將京、以巡狩筑紫國、始到夷守、人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰、其集者何人也、若賊乎、乃遣兄夷守弟夷守二人覩、乃弟夷守還來而諮之曰、諸縣君(○○○)泉媛、依レ獻大御食而其族會之</古事類苑>
 <wikipedia>景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日(130年12月24日))タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、景行天皇の実在性には疑問。実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半か。景行12年(82年)熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。11月ようやく日向国に入る。…(中略)…熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。</Wikipedia>
 <みやざきの神話と伝承101>天皇は[熊襲平定後]京をしのんで「思邦歌(くにしのびうた)」を残し、18年3月京に向かった。このとき初めて夷守を訪れた。「石瀬河」の辺りに多くの人が集まっているのを遠くから見つけた。左右の者に「あそこに集まっているのは何者だ。賊か」とたずね、兄夷守、弟夷守を遣わした。弟夷守が「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が大御食(おほみあへ=食事)を献上しようとして、その一族があのように集まっているところです」と報告。</みやざきの神話>
 現在、「宮崎県小林市細野夷守」の地名が残る。
[筑前国]
 <古事類苑p.0927>〔延喜式〕諸國驛傳馬 筑前國驛馬〈獨見、…中略…、席打、夷守、美野各十五疋、…後略… </古事類苑>
[越後国]
 <古事類苑p.0342>〔倭名類聚抄〕頸城郡 沼川〈奴乃加波〉…中略… 夷守〈比奈毛里〉…後略… </古事類苑>
 上越地方(じょうえつちほう)は、新潟県の西部を指す。令制国の越後国頸城郡に当たるため、頸城地方(くびきちほう)ともいう。地方中心地は上越市。
[美濃国]
 <延喜式神名帳 神社一覧>比奈守神社「ひなもり」「應神天皇、神功皇后」岐阜県岐阜市茜部本郷2丁目67番地の1</延喜式神名帳 神社一覧>

 景行天皇の日本書紀による生年・没年(紀元前13年~130年12月24日)は、「漢委奴國王」の時代で、その頃すで日本の中央政権が確立していて、宮崎まで親征(天皇自らが軍を率いて遠征すること)したとするのは明らかに日本書紀編者の創作である。
 しかし重要なのは、日本書紀を編纂した720年に、その材料として用いた伝承が「都から遠く離れた土地に夷守があり、天皇の家来としての夷守が存在した」ことを証明していることである。ただし奈良時代には役職としての夷守は既に消失していた。
 地名の継承に関しては、小林市の現在の地名「夷守」は後世日本書紀を読んだ人が「このあたりだ」と決めて、後から名づけた可能性があるので、油断はできない。
 言語については、3世紀半ばから8世紀初頭まではわずか500年間ほどなので、その連続性は保たれていると思われる。比較のために現在から500年前を考えてみると、それは戦国時代なので、恐らくその程度の変化であろう。
 さて、このように弥生時代から奈良時代まで「ひなもり」が同一単語として繋がっていたとして、その指すものの実体は年月とともに変化していったと思われる。初期は倭人伝をそのまま読むと「ひなもり」都から遠い国邑を対象に、一国に一人ずつ副官として、邪馬台国によって「付家老」(江戸時代、本藩が支藩に対し、施政を監督・指導するため遣わした家老)のように配置されたととれる。
 それが後に集約されて拠点とする国だけに組織として置かれるようになり、独自の役所を設置し、それが地名に転じたのではないか。
 このように地名化した4箇所の「ひなもり」を地図に表して見ると、中央政権の所在地は福岡県山門郡より、奈良県纏向とした方が、自然な配置に思える。それぞれ朝鮮半島、九州南部、当時倭国の外だった東北の有力豪族に相対する拠点として納得できる。
 しかし、美濃国だけは近畿に近すぎる。時代とともに「辺境」というより直面する敵に対する拠点に変質していった(たまたま信濃国あたりに敵がいた?)か、あるいはかつて別の国にあった同名の総本社の支社だけ残ったのか、そもそも別の起源に由来するのか。確かなことはわからない。

【実はピナモリ】
 地名に「比奈毛里」が宛てらることもあることからも、「夷守」は"hinamori"で間違いない。だが、万葉仮名を分析すると、万葉集の時代は、母音が8個あった。(イ、ウ、オはそれぞれ甲乙がある)
 この問題の検討は専門的すぎるので、「イ甲」も「イ乙」も大体「イ」でくくり、とりあえず踏み込むことを避ける。
 もうひとつの問題は、研究の結果現在の「は」は、昔はふぁ、大昔はパだったらしいということである。こちらは避けて通れない。
 次のまとめが参考になる。[要領よくまとめられているので利用させていただきます]
佐藤和美さんのサイト>「は」行音の子音は奈良時代以前はpだった。それが奈良時代にはφになっていた。さらには江戸時代初期にhに転化した。</佐藤和美さん>
奈良時代以前奈良時代平安時代末期江戸時代初期
語頭φφ
語頭以外φ
paφaφaha
kapakaφakawakawa

 ここで"p"は、英語のpenのような、口唇破裂音。"φ"は口を半開きにして息を通す口唇摩擦音。"φa"は「ふぁ」と書くが、英語の"fa"(下唇を上前歯で噛む)ではない。"h"は、現代のハ行音。
 歴史的に日本語には「唇をきつく閉じる動作がだんだんゆるくなっていく」という法則があるとされる。原因は不明であるが。
 <余談>私の経験では、英語やフランス語の歌の歌詞を和訳して音符に付け直すのは極めて困難である。というのは、例えば、thinkは1音節なので、音符1個についているが、「思う」は3音節なので音符が3個必要である。だから、和訳する場合大意を失わないようにしながら、徹底的に省略しなければならない。
 日本語は、音節の末尾の子音(peekの"k"など)が消滅した言語なので、新しい単語ができる過程で必然的に、1語の音節数(かな文字数)が多くなる。だから、1語を話すときの口の動きがだんだん忙しくなるので、唇をいちいち閉じるという動作は徐々に不完全になっていく。
 これが私の仮説だが、単なる印象であって実証されていない。</余談>
 <仮説>さて、3世紀ごろ倭国を訪れた魏国の記録者は、倭人の音声「ピナモリ」(または「ピナボリ」)を聞いて、漢字による筆記に迫られた。なお、中国から見て周辺民族は野蛮なので、なるべく固有名詞は卑下する漢字を用いるというきまりがある。
 当時の漢語では、"卑"は"pi"と発音したので"卑"を宛て、「卑奴母離」と書き取った。なお、筆記者は「ピナモリ」における個人名・職名の区別については興味がなかった。</仮説>
 以上の仮説の真偽を調べるには、漢字の古代の発音がわかればよいということになる。
 3世紀の漢字の読みは今とは異なるが、研究の結果大体判っている。ところがその根拠にしたのは、皮肉なことに今日の日本における音読みである。
 中国では王朝の交代はしばしば異民族による中央の占拠であるので、同じ漢字を使ってはいてもその発音が民族の交代のたびに大きく変わった。しかし、日本国内は民族の入れ替えはほぼ皆無なので発音の変化が少なく、漢字移入時の読みが比較的保存されている。この性質がが古い読みの推定に利用されたのである。
 だから、日本語の発音を資料に使わずに古い漢字の読みを推定することは困難である。そこで次善の策として「現代」の"卑"の中国読みを調べてみたところ、「bei1 bi3 bi4 pi2 ban1」(國際電腦漢字及異體字) であった。(数字の意味=中国語は母音は同じ発音でもその1文字の中の高低によって異なる母音となる。数字はその種類を表す) pは口唇破裂音、bはその有声音なので、古代でもほぼ現在と同じ発音だが、pが比較的優勢だったとすれば仮説は成り立つ。
 同様に「比」の現代の読みを調べると、「bi3 bi4 pi2 pi3」なので、ほぼ同じことが言える。
 漢字輸入時は、"卑"の音読みは"pi"であったと仮定する。その後、音韻が変化してハ行は"h"音になったので、すでにわが国の文字になっていた"卑"の音読みも連動して"hi"になった。
 「p」から「h」への変化は系統的に起こったので、日本語における古代の"pi"は完全に現代の"hi"に移行した。従って「当時はピだった」ということは頭の隅に置きつつ、便宜上現代読みで「ヒ」と読んでも全く支障はないことになる。


【卑狗】
 日子(ひこ)…古語辞典によれば、男子の美称。女子の「姫」に相当とある。海彦、山彦など。古事記では、3代安寧天皇~10代崇神天皇に「日子」が含まれている。例えば安寧天皇=師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)。
 随書にも、「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢」(比は当初「北」だったが後に「比」に訂正される)つまり遣隋使を遣わした倭王が「たりしひこ」がある。
 つまり「ひこ」は「姫」と同様、相手の身分が高い場合の、あるいは高い身分でない場合でも好意をこめた呼称である。王など身分が高い相手を指すとき、名前を直接口にすることが憚り単に「ひこ」と呼んだ。現代の会話で「明仁天皇は~された」とは決して言わず「陛下は~」と言うようなものだ。
 また、地位に関係なく親しみを感じる相手も「ひこ」と呼んだと思われる。時代劇で「姫」と呼ぶ場面が参考になる。

【随行記録官】
 魏国は、諸国に使者を送る際、「記録官」(※)が随行し、当地での見聞や外交交渉などを記録に残すことを職務としていたと想像される。(※もちろん実際の職名は不明なので、便宜的にこう呼ぶ)
 記録官は、倭国の言葉には通じていないが、訪れた国ごとに、その官または住民同士のの会話から、あるいは直接身振り手振りで「大官は誰か?」と質問した結果、大官が「ぴこ」と呼ばれていることを知った。
 同様に副官の呼称「ぴなもり」を知り、それぞれ発音が似て、かつ卑語にあたる漢字を宛てて書き取った。
 通常の会話では前項で触れたように、本名ではなく美称「ぴこ」や職名「ぴなもり」を用いる。記録官は、それをそのまま記録したのである。

【支配と服従】<仮説>
 倭国の国邑をあたかも、帯方郡の統治対象のように記述している。(「県が市町村を管理するようなもの)
 その第1の理由は、それぞれの国邑について、一貫して「大官名」「副官名」「戸数」「面積」の項目を欠かさないよう、形式を整えているからである。(ただ、情報が得られない項目は欠如している)言わば役所に保管された担当地域の書類という雰囲気である。
 第2の理由は「世有王皆統属女王国」(世に王有り、皆女王国に統属す)とか、「特置一大率検察諸国諸国畏憚之」(特に一大率を置き諸国を検察す。諸国之を畏れ憚る)と、女王国の強い支配を、これでもかと強調する表現に、内心はそのような女王国による支配を嫌悪し「形だけでも帯方郡の支配地域に入れたい」という思いが感じられるところである。
 なお、「世有王皆統属女王国」の文は伊都国の項にあり、「皆」が伊都国の代々の王なのか、諸国の王を指すか不明確である。しかし魏略では、対馬国を含む諸国を指して「皆」としていることが明確に読み取れる。(後に述べる)
 さて、大官(次の一支国からは、単に「官」となっている)は、どのように任命されたか。
 前述した住民による「ひこ」という呼称に注目すると、かつて独立していたころ国邑の王の家系が、女王国に服属した後、改めて大官に任命された可能性がある。
 これは、明治時代の初期、廃藩置県に伴い版籍奉還した大名がそのまま県知事に任命されたことに似ている。また、かつて熊本県知事細川護熙氏は、細川家18代当主でもあり、地元では親しみを込めて殿と呼ばれていた。
 女王国は辺境の国に対して、地元の元王家の主を大官に任命して自治権をある程度保障する一方で、副官として(前述の付家老的に)夷守を送りこんで睨みを利かせた。
 もう一つの可能性として、対馬から伊都国までは、実は帯方郡と倭国から二重支配を受けていた可能性も有る。詳しくは後の回で述べるが、帯方郡の郡使は伊都国までしか足を踏み込むことができなかった。また女王国側が一大卒を駐留させているのも伊都国である。
 従って伊都国は、双方の接点という重要な存在である。倭国の周辺部に位置する諸国は、大官は帯方郡から任命され、副官は女王国側から任命された夷守である。女王国にとっては本当は「夷守」が首長(官選知事のようなもの)だが、心ならずも帯方郡指定の大官との並立になっている。
 この可能性の裏づけとなるのは、伊都国周辺までは里程の記載があるのに、それ以後はないことである。里程は歩測(歩数で測る)によったと思われるが、重要な軍事情報なので女王国は倭国内での歩測を許さなかった。しかし、伊都国以遠は帯方郡との力関係によって禁止できなかった。
 さらに、倭人伝が「大官」「副官」の呼称にこだわるのも、帯方郡が「郡の下に、それぞれ大官・副官を備えた国邑が整然と組織されている」と強調したいかも知れない。
 </仮説>


2011.03.09(水)原文を読む(5) 至對馬國

始度一海千餘里至對馬國
始めて一海を度(わた)り千餘(余)里、對馬國に至る。

初めて海をひとつ、千里余を渡り、対馬国に着く。

【始度一海】
 帯方を出発して以来七千里の船旅は、決して「渡海」ではなかった。
 これまではあくまでも海岸線近くを、海岸に沿った移動で、これは「水行」と称した。ここから初めて大きな海を渡るのである。
 「渡海」は「水行」とは根本的に異なり、基本的に水平線に陸地が見えない航海である。気象の予想、高波を乗り越えるなども含め、外洋の航行には高度な航海術が必要である。
 古代の航海については、海洋の大民族、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの航海術の研究が進んでいる。彼らは基本的に星座の位置によって位置を把握したと考えられている。
 当時の船の参考になるのは三重県松阪市宝塚古墳から出土した船形埴輪(三重県松阪市のページより)で、これは、艪を通す穴が3対ある立派なものである。年代は5世期はじめであるが、これに近いものが200年前の卑弥呼の時代にあったかも知れない。もし遺物が発見されれば最高である。
 魏志倭人伝には、對馬國の住民は「自活乗船南北市糴」、つまり、船で南の倭国、北の韓国に自在に行き来し、交易によって食料、生活物資、そして恐らく儀式用具などを得ていたと思われる。
 <wikipedia>壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土</wikipedia>しており、海峡の対馬国、壱岐国では高度な航海術をもつ技能集団が存在し、その移動範囲は出雲はおろか、ことによるとポリネシアまで広がっていたかも知れない。
 <想像>拘耶韓國に到着した魏の使者は、いつものように対馬国の商人から船団を丸ごと借り上げ、天子よりの数々の下賜品を積み替えて倭国に向かうのであった。</想像>

【千餘里】
 現在の金海市南の沿岸から対馬中央部までの直線距離は97km。1里=77mを採用すると、1290里で、「千餘里」とうまく合う。しかし、次の壱岐国までは「千餘里」より短い。


【どこまで離れると島が見えなくなるか】
 地球の半径をr、球面上の大円に対する円周角をθとすると、水平線に隠れてしまう山の高さhは、
 h=r(1/cosθ-1)
 分かり易く言うと「真北へ緯度θ度移動すると、高さhkmの山頂が見えなくなる。」
 r=6366km(地球の半径)とすると、θが小さいときの近似式は h=0.96972θ2
 北緯1度は111.1kmに相当するので、h=111.1×√(h/0.96972)=112.8√h
 一例として富士山の3.776kmを代入すると219km。だから富士山は、160km離れた三宅島からは見えるが、270km離れた八丈島からは見えないことになる。
 対馬の最高峰矢立山は649mだから、112.8×√0.649=91km離れると見えなくなる。また、壱岐は山が低く女岳149mが最高なので、112.8×√0.149=44km。
 従って、図に示したように、岸狗邪韓國から倭国への航海では対馬は全く見えないか、波間に見え隠れする程度。また壱岐は近づかないと全く見えないことになる。

【航海に要する日数】
 参考のためにカヌーを漕ぐ早さを調べてみると、経済速度は「およそ7~8km前後でしょうか」とあった。
 古代船では1日に8時間程度は漕ぎ続けると思われるので、疲労も考えその半分の4km/hと仮定する。
 また、対馬暖流の流速は<wikipedia>1~3ノット</wikipedia>(2~5.5km/h)なので、流速を仮に4/√2=2.8km/hとすれば、航行距離は、直線距離97kmの√2倍=140km程度になる。
 しかし、途中複雑な海流に巻き込まれたり、風向きによってジグザグ航行をする場合などを考えると、順調にいっても直線距離の2倍の200kmぐらいであろうか。
 それを時速4km/hで割れば、50時間になるが、漕ぎ進むのを1日8時間程度(例えば、星座が見える夜間限定で進んだ場合)とすれば、約6日間の航行となる。

【對馬國・對海國・都斯麻國】
(1)紹興本と紹煕本
紹興本 (1131年~1162年刊)は「對馬國」
紹煕本 (1190年~1194年刊)は「對海國」

(2)魏略
魏略(翰苑※による引用)
到拘耶韓國七十里始度一海千餘里至對馬國
拘耶韓國に至る七十里。始めて一海を度(わた)る千餘里、對馬國に至る。
「七十里」…「七千里」の誤記は確実。魏略は、魏志の原資料であったと考えられている。
※…660年以前に成立の類書(<wikipedia>各種の書籍より、一つないしは複数の部門の資料を集め、分類順または韻順に編集し、検索の便をはかった、中国や日本古来の参考図書<wikipedia>)

(3)隋書
大業3年(607年)に倭国の王多利思比孤(たりしひこ?)の使者が朝貢し。隋は翌年使者を倭国へ送る。
その記録によると、経路は、百濟→竹島→都斯麻國→一支國→竹斯國…。
しかし、まず黄海を渡って百済に上陸し、半島を横断して日本海にでて(「(新)羅國を南に望む」の記述がある)竹島に至り、そこから対馬に向かうのは無意味に遠回りである。
とは言え、対馬→壱岐→筑紫は、時代を超えて朝鮮・日本間の重要航路だったことが伺われるので、やはり都斯麻國=對馬國であろう。

 以上から、現在の対馬は、弥生時代より「ツイマ」から「ツシマ」あるいは、はじめから「ツシマ」に近い発音で呼ばれてきたと思われる。
 奈良時代の行政区分が、地域名として古事記から1300年くらい引き継がれているのだから、それ以前も500年間程度なら、あまり変化なしに維持されてきたかも知れない。
 また、もともと古代の日本語にはハ行が存在しなかったとされていたので、「海」(ハイ)と書き留められる音声はなかったことになり、對海(ツイハイ?)は誤写ということになる。


2011.03.05(土)原文を読む(4) 狗邪韓國

到其北岸狗邪韓國七千餘里
其(そ)の北、狗邪韓國の岸に到る七千餘(余)里。

七千里余りを経て、北に見る狗邪韓國の岸に到着した。

【狗邪國を含む弁韓地域】
 三韓のひとつの地域、弁韓(弁辰)は、三国志魏書東夷伝として書かれている。 書き出しは「弁辰亦十二國又有諸小別邑」(弁辰もまた[辰韓と同じ]12の国または小さな邑が有る)として各小国共通の官制の後、国名を列挙している。
 ただし、辰韓の国名と混合して列挙し、弁辰の国名だけ頭に「弁辰」をつけて「弁辰○○国」と表記することによって所属を示している。 弁辰には、「弁辰狗邪國」「弁辰瀆盧國」が含まれる。

 そのうち、瀆盧國について特に「其瀆盧國與倭接界」(その涜盧国は倭に境界を接する)としているのが目を惹くが、それでは涜盧国はどこにあったのか。 複数の説がある。
<wikipedia>涜盧国(독로국)(のちの東莱郡。倭に接すという)</wikipedia>
<wikipedia>東莱郡(トンネぐん)は、大韓民国慶尚南道にかつて存在していた郡。現在の釜山広域市の大部分を占める。</wikipedia>
また巨済島は <wikipedia>(巨済)市の公式サイトでは、三韓時代の弁韓の一国で「倭と界を接す」と記された瀆盧国を歴史的淵源に求めている。もっとも、瀆盧国の比定地には諸説あり、巨済島とする説は定説ではない。</wikipedia>

【狗邪韓國】
<wikipedia>駕洛国、もしくは金官伽耶・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国の慶尚南道金海市にあったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。</wikipedia> ただし金海市は内陸だが、狗邪韓國には岸があるので、海岸まで領土だったことになる。
 また、弁辰伝の「狗邪國」と倭人伝「狗邪韓國」の表記の不一致がある。当時は、「韓国にある狗邪國」という意味合いで、狗邪韓國と呼ばれることがあることがあったのかも知れない。 ここでは、「狗邪國」「狗邪韓國」は同一だが、弁韓伝と倭人伝はそれぞれ異なる原資料に依って書かれ、表記の統一は図られなかった、と解釈しておく。

【瀆盧國】
 倭に境を接するのは瀆盧國であるが、倭人伝では「瀆盧國」には触れず、「到北岸狗邪韓国」になっている。
 ということは、対岸に一番間近に対馬が見えるのは瀆盧國であるが、倭との交流の拠点が狗邪國沿岸にあったのかも知れない。 <主観的な想像>狗邪國沿岸は巨済島との間の内海で、波穏やかで外海に面する瀆盧国より港に適していた</主観的な想像>という想像も成り立つが、当時の船の構造、水深・海流・気象条件を調べ、さらに遺物の発見がなければ確かなことは言えない。

【其】
 「國際電腦漢字及異體字知識庫」で調べると、「寺で用いるちりとり」などいろいろな意味があるが、ここでは指示語。
>5. 代詞。①表示第三人稱。②也可以作反身代詞,指自己。③表示指示,相當於「這」、「那」、「其中的」。
google翻訳で英訳:
>5. Pronouns. ① said the third person. ② could also serve as a reflexive pronoun, referring to himself. ③ said instructions, the equivalent of "this", "That," "which."
(5.代名詞 ①三人称単数 ②再帰代名詞、即ち自身を指すための使用も可能 ③指示語 "this","that","which")
  ~なお、英文法では、「指示語」の概念はなく、"this is"のthisは代名詞で、"this book"のthisは形容詞~
のように、指示語で「狗邪韓國」を指す。

【北岸】
 半島の海岸沿いに循ってくれば、ここでは東向きの水行だから、狗邪韓國の海岸は左手(=北)にある。この港にいったん立ち寄りいよいよ倭への基点だという気持ちが伝わってくる。 「其北岸」を「狗邪韓國の北の海岸」と読めば確かに向きが反対で解釈に困るが、私は「海から見て北にある岸」の意味で「北岸」を全く抵抗無く受け取ることができる。

【七千餘里】
 いくつかのサイトで、谷本茂氏の「中国最古の天文算術書『周髀算経しゅうひさんけい』之事」(「数理科学」 一九七八年三月)が紹介されている。 その内容は、測量史研究者の谷本茂氏は、古代中国の数学書『周髀算経』の、8尺の棒を立てて南中の太陽の影の長さを測り、「1寸」長さが違えば「千里」という記載から、1里の長さを76~77mと計算したとある。
 確認のため、周髀算経の原文にあたってみた。中國哲學書電子化計劃(http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh)から、周髀算經を選ぶ。 掲載された文を読むと、地球は平面だと捉えていたり、数値の根拠が不明な箇所もあるが、次の部分だけはよくわかる。
(原文)日中立竿測影。此一者天道之數。周髀長八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。正晷者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸。 そのうち、「股」「句」の字義を「國際電腦漢字及異體字知識庫」で調べると、両方とも幾何学用語の用法があった。
 股…直角三角形構成直角較長的邊。(直角三角形の直角を構成する[二辺のうち]、より長い辺)
 句…數學名詞。古稱不等腰直角三角形直角旁的短邊。 (数学用語。古い言い方で、二等辺でない直角三角形の直角を端にもつ[二辺のうち]短い辺)
 つまり直角三角形の直角を挟む2辺で、長い方が「股」、短い方が「句」。(図2)
(原文の訳)日中(太陽が南中したとき?)竿を立て影を測る。此の(これから述べる)一つ(の数)は天道の數(太陽の運行についての観測値?)である。 長さ8尺の周髀(測量棒?)が夏至の日の南中[一年中で影が最も短い]、晷(影)は1尺6寸。髀が長辺なら正に影は短辺。真南に千里進むと、短辺は1尺5寸。北へ千里行くと1尺7寸。
 図2で、髀8尺、晷1.6尺のとき、句/股=0.2になる。図1からその地点では、tan(その地点の緯度-23.44°)=0.2
 従って緯度=tan-1(0.2)+23.44=34.75°(34度45分)
 影1尺5寸の地点は、A地点の南 0.690° に当る。南北の緯度差1° はどこでも111kmだから、1000里=111×0.690=76.7km つまり1里=76.7m
 影1尺7寸の地点は、A地点の北 0.687° に当る。だから、1000里=111×0.687=76.3km つまり1里=76.3m
 「影1尺6寸」になるのは前述のように北緯34度45分の地点である。因みに魏の都洛陽(歴史上しばしば都になった)は北緯34度39分。
 なお、1000里が76.3kmまたは76.7kmになるのは、夏至における北緯34度45分の場合で、緯度、季節が違えば変化する。
 以上から1里=77mとして、7000里は540km程度である。 海路でモッポ(木浦)付近で折れ曲がることにして、3点を結ぶ折れ線では、現在のソウル・モッポ間(390km)+モッポ・プサン間(260km)=650km。 ソウル・プサンを直線で結べば370km。 そこで陸路で最短コースをとった場合、道は曲がっているので直線距離の1.5倍ぐらいはあり、歩測(歩数によって距離を測る)によって求められそうな値である。


2011.02.28(月)原文を読む(3) 從郡至倭

從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東
[帯方]郡従(よ)り倭に到る。海岸を循(めぐ)り韓国を歴(へ)て南乍乍(また)は東へ水行す。

出発点は帯方郡治(役所所在地)。倭に到るには、まず韓国内を海岸沿いに船で南または東へ移動する。

【陸行と水行】
 「陸行」、すなわち目的地に移動するのに道路を歩くことは当然であるが、それは縦横に道路が整備された現代の話である。 西暦2~3世紀の倭国や韓国ではどうだったか?木の実を採集したり、鳥獣を狩猟するために、登山道程度の道はできていたであろう。 しかし、遠い集落(分立した国邑の生活区域)への移動はどうだったか? 道路の整備はかなり拙いものだったと想像される。 おそらく、森林や草原、山岳、河川を突っ切ったり、曲がりくねった道なき道の連続であっただろう。 それよりも、海岸沿いの船の方がはるかに便利な交通手段だったことは容易に想像できる。 海岸に平行にカヌーのような船を奴婢が漕いだか。帆船もあったかも知れない。
 ただし同じ航海でも、海洋に漕ぎ出して遥かかなたの島まで進む場合は、特別に天文や海流の知識が必要である。
 倭人伝ではここを明確に区別して、海岸沿いの移動を「水行」、海洋の航海を「渡海」と表現している。

【従】
 国語辞典では、「後について歩くさま」や「決まりを守る」ほか、「~より」もある。しかしこの「~より」は「従来」「従前」という時間的な用法で、空間的ではない。 そこで後述の「乍」を含め、漢字の意味を掘り下げるためにネットを探ったら、遂に台湾の「國際電腦漢字及異體字知識庫」(以下、「漢字知識庫」と省略)に行き着いた。 実にたくさんの用法があるが、その項目⑰。
<漢字知識庫>
17. 介詞。①表示起點,相當於「自」、「由」。②表示對象,相當於「向」。③表示原因、途徑,相當於「因」、「由」。④表示憑藉;根據。
</漢字知識庫>
17.介詞[品詞のひとつ、英語の前置詞に類似]①基点を示す、「自」、「由」に相当。②対象を示す、「向」に相当。③原因、経過を示す「因」、「由」に相当。④よりどころ;根拠を示す。
結局、「自帯方郡到倭」と同じだった。

【翰苑引用による魏略】
從帯方至倭循海岸水行暦韓國

「郡」は「帯方」のことだから適切。しかし「歴」には「暦」の意味はあるが、ここでは用法が違う。意味を考えずに筆写したらしい。

【循】
<漢字知識庫>
1. 順著;沿著。 2. 依循;遵從。 3. 按次序。 4. 步行。 5. 恭謹。 6. 善。 7. 述;追述。 8. 安撫;慰問。 9. 大;擴大。 10. 通「巡」。巡視。 11. 通「揗」。撫摩。
</漢字知識庫>
 「順にたどる」そこから、単に「歩く」、福祉施設の慰問、警備のための巡回などが派生。

【歷】
<漢字知識庫>
1. 經歷;經過。 2. 越;越過,跨越。 3. 行。 4. 干犯;擾亂。 5. 盡;遍。(中略) 15. 同「曆」。①曆法。推算年、月、日和節氣的方法。(後略)
</漢字知識庫>
<余談>15.「暦」に同じ…確かに月日を巡るのが暦。</余談> ここでは「越える」がもっとも文意に沿う。「帯方郡治から韓国を越えて倭に到る。」

【韓国】
 現在は「大韓民国」の略称だが、当時も朝鮮南部は「韓国」。3つの地域に分かれていたので「三韓」と呼ばれていた。
<wikipedia>
 三韓は、紀元前2世紀から4世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した部族とその地域。朝鮮半島南部のことを韓と言い、風俗や言語によって大きく3つに分けられたことから三韓と呼んだ。
</wikipedia>
 日本書紀の三韓征伐の対象は「百済・新羅・高句麗」だが、三国時代は馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)を指す。

【乍】
 現代日本語の用法では、「乍(なが)ら勉強」の「同時に二つのことを行う」が最も多い。 google翻訳だと、たとえば「乍版」=(和)初版、(英)first edition。つまり「乍」は「最初の」。 この意味から派生し、もともと「作」という意味があったが、この意味の場合は、後に人偏をつけて表すことになった。
<余談>
 乍度=Chad(中央アフリカのチャド共和国)。
 また、楽曲名Starの中国語題名「星光乍現」について、中国人の感想「中文名稱是『星光乍現』覺得有點怪怪的名稱」
 読み下し文風「中文名称は『星光乍現』是(は)怪しき名称なる点有り得(う)と覚ゆ。」
google翻訳「中国の名前は"スター乍现"私はちょっと変な名前を感じている。」
 かくて混乱に陥り、腰をすえて探求を続けた結果いきついたのが、前述の「國際電腦漢字及異體字知識庫」であった。
 ついに見つけたのが、
</余談>
<漢字知識庫>2. 連詞。表示選擇關係。</漢字知識庫>連詞。選択される関係を表す。
ということはつまり、"either the south or east"。結局一般に「あるいは南に、あるいは東に」と和訳されているのは、極めて妥当であった。
ただし、南と東が完全に対等なときは、東→南の順に書かれるので、南が始めに書かれてある場合は、「まず南に進み、後に東に進む」というニュアンスが感じられる。
実際、朝鮮半島の海岸線に従えば、ソウルからモッポまでは大体南向きで、ほぼ直角に曲がってプサンまで東向きである。


2011.02.27(日)原文を読む(2) 為国邑

依山㠀爲國邑
山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。

険しい山をなす島に国や邑(むら、もともと古代中国の都市国家)を形成している。

【山[なる]島】
 珊瑚礁が隆起してできた島(石垣島など)は平地であるが、日本列島を形成する対馬、壱岐、九州、四国、本州など多くは複雑な地殻変動により急峻な地形である。
 日本書紀において日本を構成する「八島」は、基本的に本州、四国、九州、淡路島、壱岐、対馬、隠岐、佐渡で、伊豆大島などは含まれない。だから、今日のほぼ西日本の範囲が古代の日本であった。 古代中国で認識されていた「倭」の範囲は、当然その程度以下であろう。

【国邑について】
 「国邑」は「2つのタイプの国が混在している」意味はなく、単純に複数形。「山岳」と同じ。中国は既に中央集権的に国-郡-県の行政組織が確立しているが、日本や韓国はまだ独立性の強い小国の集合体であった。弁辰伝、倭人伝ではそれぞれの小国の末尾に必ず「國」をつけて表記している。
 「依りて」は、島の土地が国の基盤であるという意味であろうが、島ごとに国がある意味にもとれる。対馬国(藩)は、古代はもちろん江戸時代まで独立性が強かった(中国・朝鮮との外交を仲立ちしたりする)。 そんな対馬国のイメージが強いから島ごとに国がある意味で「島に依りて」という表現になったように思える。 ただ実際は、大きな島は末盧國・伊都國・奴國・不彌國などに分かれている。

【魏略の記述】(魏志に先行し、魏志の母体となった歴史書)
(漢書地理史 顔師古注)倭在帯方東南大海中依山島以[為]国
     ※[]内は筆者による挿入
倭[国]は帯方の東南、大海に在り、山島に依り、以って国を為す。
小国の集合体「国邑」の代わりに単数の「国」が使われ、主語も民族名「倭人」ではなく国名「倭」であるので、この方が文意が明瞭である。


出典=http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5a/Kan_wana_kokuo_inbun.jpg 舊百餘國漢時有朝見者
旧百余国、漢の時、朝見する者(国)有り。

 前漢(BC206~BC8)時代は、倭に多くの国があり、そのうちいくつかはおそらく別々に朝見(臣下が朝廷に参内(さんだい)して天子に拝謁すること)。 そのうち倭奴国に国王の称号を与えて冊封していたことが、「漢委奴国王」金印によって実証されている。

【冊封】(さくほう)
<wikipedia>
 冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「属国」の関係)をともなう外交関係の一種
</wikipedia>
 「冊封」といえば、秀吉が明の皇帝から、「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」との書状(綾本墨書 明王贈豊太閤冊封文)を受け取って激怒した話が有名。 古来、中国は、周辺国と外交関係を結ぶ場合、相手国を自国の領土の一部と見做して、そこをを治める「王」を任命する形式をとってきた。 現代の感覚では傲岸不遜であるが、
<wikipedia>
 古代中国において、異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」「中華」と呼んだ。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」
</wikipedia>
という蔑称を宛てていた。つまり、大陸中央に進んだ文明の華があり、周辺国は野蛮人なのだから仮に外交関係が結ぶ場合、そこを治めるのは野蛮人の代表ではなく、天子の忠実な臣としての「王」でなければならない。
 「朝見」したのは旧百余国すべてではなく、一部の国であったと思われる。もしすべてなら「舊百餘國漢時皆朝見」という表現になるであろう。 国々のうち特定の相手だけを冊封したとすれば、金印「漢委奴国王」の「委」が「倭を代表して」という意味を帯びてきて、分かりやすくなる。
* しかし、「委」は動詞で「漢は国王を奴国に委(ゆだ)ねる」という意味の称号かも知れない。なぜなら、女王國に対する金印には「親魏倭王」と「親」の文字が加えられたように、金印に記す称号は動的な表現が通例かも知れないからである。
*...前漢以前の文献に「倭」の呼称があることを知ったので、結局この解釈は無理であることがわかった。 ともかく、のちに女王國に「親魏倭王」の称号を送って国家関係を樹立したのは重要な外交判断であったことが伺える。
<勝手な想像> かつて漢の時代に倭国の代表として(?)国交を結んだのは奴国であった。だが、三国時代になると、奴国は他の北九州諸国とともに「一大卒」によって女王國から厳しく統制される立場となった。 奴国は中央から進出してきた邪馬台国に追い詰められ、代々の王が大切に守ってきた金印を奴国の沖合いにあった志賀島(今は地続きだが)に秘匿し、涙ながらに奴国の再興を誓ったのである。</勝手な想像>


今使譯所通三十國
今、使訳通ずる所三十国。

 「訳」は、もともと言葉をばらばらにする、つまり言語を分析的に深く理解するという意味。
 とすれば三十国との関係は「朝見」ではなく「文書を伝達し、内容を立ち入って説明する使いが行き来する」実務的なものである。言外に「朝見」関係は女王國に一元化されていることを匂わしているか。 女王国に魏国との外交権を独占させることにより、倭国内の諸国に、女王国への服従を促す政策か。倭国の統一と安定が魏国にとって至上命題であったことが伺われる。 実際、魏志倭人伝後半では次のように記述されている。

【倭の女王による朝献】
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻
景初二[三?]年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣(つかわ)し郡に詣で天子[皇帝]に朝献を求む。
太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月
太守[=帯方郡の首長]劉夏は吏將を遣し、其の年十二月京都[=洛陽]詣でに送る。
のように邪馬台国に独占的に外交関係を許したことが詳しく書かれている。

【旧と今】
 「旧」と「今」、あるいは「昔」と「今」はそれぞれ正確に対応して使われていることに留意したい。

【「三十国」と本文との対応】
 2(対馬海峡)+4(北九州)+1(投馬國)+1(邪馬台国)+21(その他の国名リスト)=29
 「旧」は百"余"国と概数表示だが、「今」の方は三十"余"国でも"許"三十国でもないので、実数表示かも知れない。 そこで狗奴國を加えてみると、丁度30カ国になる。狗奴國も「使譯所通」国に含まれると考えると、女王国には決して服従しようとしないが、魏国とは独自に使者をやりとりする関係が保たれていることになる。
<勝手な想像>狗奴國は女王国の一員になることを拒み、独自に朝献を望んでいたが魏国は拒否し、女王國連合の一員になることを促していたかも知れない。</勝手な想像>
 実際の国名、国数が事実通りかはともかく、文書内では矛盾が起こらないように注意深く書かれている可能性がある。 とは言え、900年間筆写が重ねられたのだから「余」または「許」が脱落した可能性も否定できない。

【「百余国」「三十国」に動詞がない問題】
 今日のわが国の新聞記事のように、動詞を省略した文があり得るかという問題がある。 魏志倭人伝の各文を見ると基本的に動詞の省略はないので、この場合は、「国邑」と同格でつながっていると解釈すべきであろう。
 そしてこの長い文にある唯一つの動詞が最初の「為す」である。(図示) つまり主文は「昔百余国、今三十国の国邑を為す。」で、百余国、三十国のそれぞれを形容する副文がつく。 全体を強引に日本語で表すと「山険しい島ごとに、国々:すなわち古く漢の時代に天子に詣でる国を含む百カ国余、今は外交文書を伝達する使いが行き来する三十カ国を形成する。」 (関係代名詞の入った英文を和文に翻訳するのと同様の難しさがある)


2011.02.25(金)原文を読む(1) 帯方郡

倭人在帶方東南大海之中
倭人は帶方[郡]の東南、大海之(の)中に在り。

【行政区分】
<wikipedia>
帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南半を裂いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の?、南の韓、東南の倭がこれに属す。
帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。
</wikipedia>
また、<wikipedia>郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。</wikipedia>つまり、太守=知事、郡治=県庁所在地のようなものか。遺跡が発掘されて位置が確定している楽浪郡治に対して、帯方郡治はまだ所在地不明。本稿では、一応ソウル付近としておく。
当時の中国(三国時代)に鼎立していた魏・蜀・呉の内、魏(220~265年)の地方行政組織。
創立者(魏王)曹操は204年、現在の河北省邯鄲の南、臨漳(りんしょう)縣に都 鄴(ぎょう)を置く。
鄴付近を流れる、漳(しょう)水の東岸に展望臺を兼ねた宮殿を築き、銅爵臺と名付ける。
(参考文献:株式会社光エネルギ応用研究所のホームページ→文考15 銅爵薹
220年 「曹操」が没し後を継いだ「曹丕」が魏を建国。洛陽に遷都。
帯方郡は、朝鮮半島、倭国を範囲とする魏の地方行政組織。
なお、邪馬台国と魏との交流期間のはじめの、景初3年は239年。
倭人伝後半で、倭国王が派遣した使者が、洛陽や(銅爵)臺を訪れる記述がある。

【地理】
「東南」を東と南の間とすれば西日本(東日本、北日本はもう中国の知識の外)の位置は正しい。だが読み進むと投馬国、邪馬台国は「南」と記述されるから矛盾がある。ただ、その後「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」(女王国の東、千余里復た国有り、皆倭種なり)とあるので、「倭人」をここまでとすれば一応辻褄が合う。
「大海」は、そのまま受け取ることができる。
【民族名】
倭人伝の章は「弁辰伝」であって「弁辰人伝」ではない。「倭」だけ「人」がつくのがやや気になる。
これについて松本清張は、「清張通史」で「倭人」を「倭」と区別し、「倭」=対馬をはさんだ北九州と朝鮮半島南部を含む海洋民族、「倭人」=西日本の国家の名称であるとした。
ただ「倭人」は「弁辰」とともに民族の名称であると考えれば、そんなに不自然ではないかも。では「倭種」と「倭人」の区別は? 疑問は尽きないが後日考察する。


2011.02.23(水) 原文をテキスト化

 「魏志倭人伝」原文画像を元に、文字を起こしてpdfファイルを製作しました。字体については、現代のわが国の字体、例えば島為に置き換えてもほとんど差し支えないのですが、現在はもうユニコードで普通に㠀爲が可能なので、どうせならと言うことで、極力原文に近い字体を使用しました。(ユニコードは、このような古い文献の漢字もなるべく包含するよう努めているようです)。それでも、ちょっと違うのもあります。(例えば、""はやむを得ず"枏"を使用。また、"詣"は、紹興本で"詣"ですが、紹煕本は"")また、紹煕本の"丈身"は、明らかに"文身"が正しいのですが、あえて誤りのままにしました。テキスト版へのリンク→紹興本紹煕本


2011.02.21(月) 邪馬壱国?

 2011 新年を迎えました。遅くなりましたがよろしくお願いします。

さて、正月休みにふと「魏志倭人伝」のことを思い出して、もう一度原文を素直に読むと何か見えてくるかな、と思いました。
そこで、早速ネットで原文を検索… http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/ のデータを使わせていただきました。
読み始めて、いきなりあれ?と思ったのが「對海國」。對馬國(=対馬国)の誤記?
もうひとつ「一大國」これも、一般には「一支國」のはず。
そして最大の問題である「邪馬壹國」。"壹"は"壱"の異体字で、つまり一万円札の表にある数詞そのもの。
邪馬臺國の"臺"("台"の異体字)とは全く違う字です。
俄然興味が湧いて、まずここから調べることにしました。
「原文」はみるからに漢字の羅列で古風なので、成立直後かと思ったら、実は南宋の時代(12世紀)の刊行物。
もともとは陳寿(三国時代の「魏」の役人)が西暦280~290年ぐらいに著した!
900年の隔たりは、わが国で鎌倉時代の文献を現在発刊するようなもので、記述の揺れがあって当然ですね。
では、陳寿が書いた近い時代に書いたものは残っていないのか?
残念ながら発見されていないようですが、興味深いことに他の古い歴史書にはしばしば引用されています。
「随書」(636年)
「梁書」(7世紀)
「太平御覧引用魏志」(984年)
など。これらは、基本的に「邪馬臺國」("台")です。
南宋の出版は
「紹興本」(1131年~1162年刊)
「紹煕本」(1190年~1194年刊)
で、両方とも「邪馬壹國」("壱")。
*「『臺』と『壹』について」(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/tai_to_ichi.html)を参考にしました。
また、「紹興本」「紹煕本」の両方が<一大國>ですが、「紹煕本」の<對海國>だけは「紹興本」では<對馬國>です。
単純に考えると、<對馬國>が後に誤って<對海國>になったように思えますが、「紹興本」自体も後日改訂の形跡があるそうなので、はじめは「紹興本」でも<對海國>だったのが、訂正されたのかも。
「臺」「壹」の話題に戻ります。
「『臺』と『壹』について」作者の仮説によると、宋から戦乱後に華南に移動して南宋を再興しますが、その混乱で原本が失われた。
そこでやむを得ず?、各地にあった誤記の多い写本を使ったから、としています。
私は、仮説の当否は別として、南宋以前のさまざまな引用には「壹」はなく「臺」なので、もともと「臺」であったという考えは妥当だと思います。

※この項の資料

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