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  ミサソレムニス(ベートーベン)の研究
 ◆ 2013/12/10(tue) 「終わり方が中途半端」という問題

 ミサソレムニスについての評論を書きます。
 ミサソレムニスは、ベートーベンが50歳ごろに主に第九の直前に作曲した、オーケストラと独唱・合唱・オルガンのための大作です。演奏時間は約90分を要しますが、魅力的な響きに満ちています。
 しかしこれだけ大曲なので、第九のように華々しいコーダで締めくくるのかなと期待すると、思い切り裏切られます。その中途半端な終わり方は、聞く人に何か割り切れない思いを残します。最初に、その謎を探ってみました。

ミサはアニュスディでは終わらず、その後の儀式によって完了するとする説について
 Dona nobis pacemがなぜ、このように中途半端に終わるのか?
 ミサの締めくくりは聖体拝領(イエスの体と化したパンとブドウ酒を食すること)である。 だから、ベートーベンはミサの典礼を何よりも大切にして"Dona nobis pacem"の終止を不完全にした、とする考え方がある。
 この点について検討したい。

 もともと、ミサ曲とは、ミサのうち「通常文」(季節や目的に関係なく、共通して語られる文)に音楽をつけたものである。
 まず、各楽章がミサ全体のどの場所に置かれるか、全体像を調べてみよう。
 カトリック教会の資料を参考に、概略をみる。(勝手に要約しました。すみません。)
  ・あいさつ
 Kyrie(憐れみを乞う)を唱える
 Gloria(栄光を讃える)を唱える
  ・聖書朗読 
  ・アレルヤ唱 
  ・福音朗読
 Credo(ニカイヤ・コンスタンチノーブル信条など)を唱える
  ・パンとブドウ酒の準備
  ・奉納祈願
 Sanctus(主を讃える)を唱える
  ・パンがイエスの肉、ブドウ酒がイエスの血に変化する。
 Agnus Dei (平和を祈願)を唱える
  ・パンを食べ、ブドウ酒を飲む

 もともと、ミサの根拠は、新約聖書でイエスが最後の晩餐で語った「パンを取ってたべよ。これは私の体である。ブドウ酒を杯から飲め。これは多くの人たちのために流す私の契約の血である。」という言葉である。 したがって、その後ずった続くカトリック教会のミサは、パンとブドウ酒を食することによってイエスと一体化する儀式である。
 ミサではまず、キリエで主とイエスに憐れみを乞い、グロリアで、デウス・イエス・聖霊の栄光を高らかに讃える。
 ここまでは、参加者が主体となって主を讃える行為である。
 次は聖書の朗読を聞く。その内容を再確認した上で、
 ニカイヤ信条「われは信ず」と、個人として信条を宣言する。
 ニカイヤ信条の中核は、デウスの子イエスは単なる人ではなく、デウスと同質であるとする宣言である。(西暦325年のニカイヤ公会議で論争の末に定められた)
 ここから主体は主となり、参加者は主に身を委ねる立場に転ずる。
 パンとブドウ酒を準備し、イエスの魂を迎える準備をして、
 サンクトゥスで天の主を讃え、地上に到来した主(=イエス)を褒むる。
 ここで、パンがイエスの肉、ブドウ酒がイエスの血に変化する。
 次にアニュス・デイで心の平和を祈願した後、
 パンを食べる。本来はブドウ酒も飲むが、一般的には信者が列になってパンのみを受け取る。(聖体拝領という)

 この流れのなかで、ベートーベンはミサソレムニスにおいて、各楽章をどのように扱ったか。
 まず、キリエとグローリアは人の側の営みなので、シンフォニーのように、思い切りよく終結する。
 そのままソナタの楽章のように、クレドを続けると、またAllegroなので、慣れてない聴衆は、おそらく相当のストレスを感じる。
 しかし、ミサの式次第ではクレドの前に聖書の抜粋の朗読を聞き、敬虔な時間が経過する。そして気持ちを新たにしてクレドを聞くことができる。
 ここで聖書に同意し、自分の意志として確信をもってニケヤ信条を歌い上げる。
 クレドの結尾に置かれたフーガの高まりは、どう見ても宗教儀式の枠から逸脱するが、グローリアとは違うところは、最後に沈静化して静かな祈りで終わるところである。
 Graveの部分、主に身を委ねてイエスの魂を迎える心の準備をすることができる。
 サンクトゥスの途中に置かれた「プレルディウム」は、ブドウ酒とパンがイエスの血肉に変化する儀式のオルガン独奏を模したBGMだとする解説がある。
 続けてバイオリンソロとフルート2本による高音からの下降により、イエスの魂が降り、
 それを合唱のバスが迎え「ほむべきかな、主の名によりて来たる者」と唱える。
 バイオリンソロは、しばらく至福の時を与えてくれる。
 その間に、パンとブドウ酒は遂にイエスの肉体に変わるのである。
 そこで唱えられるのがアニュス・デイの「平和の祈願」である。ベートーベンはここで現実世界における戦場の混乱を持ち込み教会音楽として崩壊崩壊寸前になる。しかしなんとか音楽を閉じ、聖体拝領を迎える。

 この曲について、多くの評論で理解不能に陥っている。その理由は明らかで、ミサ曲の各部分を楽章と捉え、ベートーベン自身の交響曲の構造をモデルとして理解しようとするからである。
 実際のミサでは、キリエ・グローリアは連続するが、その後は聖書の朗読や儀式を挟み間があくから、それぞれが独立した楽曲のように演奏されることになる。
 それぞれの楽章内ではかなり典礼文を自由に扱い、それぞれの独自の世界が盛り上がるが、終結時点では落ち着き、儀式に参加する心を参加者に取り戻させる配慮がある。
 その点がバッハのロ短調ミサとの大きな違いで、ロ短調ミサ曲では、各典礼文の内部が複数に切断され、アリアや重唱、合唱の集合体としてオラトリオのような形態になっている。
 それに対して、ベートーベンにとっては、現実のミサに「使用できる」ことが大前提なのである。
 ただ、彼はまた、音楽の内部はこれだけ充実しているのだから、別に歌詞をつければ「オラトリオ」として十分通用するという欲張った見解をもち、実際に歌詞を発注し、売り込んでいる。
 しかし、純粋に5楽章からなる声楽付き交響作品と見ると、構造のバランスが悪い。例えば交響曲5番や9番の延長線上で見れば、グローリアあるいはクレドの終結こそ最終楽章にふさわしい姿だが、ミサ曲ではその後にまだ楽章がある。
 現代のコンサートにおいても、キリエ・グローリアを続ける以外はちょっとした解説や劇のようなものをはさみ、各楽章の独立性を際立たせれば、ずっと聞きやすくなると思われる。

 もうひとつの問題は、アニュスデイのあまりにあっけない終わり方である。
 いかにその後に大切な聖体拝領があるとは言え、もう少し終わり方を整えることは可能である。
 例えば第392~3小節はdim.をやめ、"pacem"を粒の揃った音符にした上で、393小節の直後に2小節を追加するだけで終わった感じにすることができる。筆者による試作を譜例に示す。
 よって、アニュスデイの終了の不完全さは、「ミサ典礼を重んじる」以外の理由を探らねばならない。

アニュスデイが不完全に終わる本当の理由
 先に、「アニュス・デイの『平和の祈願』には、遂に現実世界の混乱が持ちこまれて教会音楽が崩壊しそうになる」と書いた
 アニュス・デイの後半"Dona nobis pacem."は、スコアに、"Bitte um innern und äußern Frieden"(内および外の平和への祈り)と書き添えられている。
 「内なる平和」とは神への祈りであり、「外なる平和」とは現実の戦乱の世界に抵抗する行為である。
 アニュス・デイには、ティンパニー・トランペットを使った現実的な戦争の描写がある。しかし平和への強い意志により、戦争の響きが去る部分も最後に描く。
 その部分、406小節ppのティンパニーは、第6番「田園」で嵐を描写した4楽章の、嵐が遠ざかる部分の手法を再び用いている。
 「田園」と言えば、Dona nobis pacem全体(特に200~211小節など)に「田園」交響曲のような響きが再現され、心地よい。そもそも2曲のミサ曲より、「田園」の方がずっと宗教的であり、その穏やかで自然な宗教感情がここでやっと発揮されるのである。

 さて、ベートーベンにとって、「平和」は、決して教会での祈りで解決される問題ではなかった。だから、機会音楽としては一応終結するが、平和に向かう意思はミサ曲で戦場を描写するだけではもう収まらない。
 第390小節でpacemは、四分音符+八分音符による音型にされ、敢えて物足りなさを表現する。392小節のデクレッシェンドによってさらに不満を表現する。
 「教会で祈る程度では真の平和はやって来ない」と言いたいのである。では、次に何が来るのか?
 直後に登場するのが、395小節のホルンの五度である。出た!第九の4楽章のテーマの予告である。(譜例)もう、真の平和のために第九にいきたいという気持ちが押えきれず、ミサはもうここまで終わりたい。
 もともと第九のシラーの詞の「Freude」(よろこび)は、もともと「Freiheit」(自由)だったのを政治による検閲を逃れるためにシラーが置き換えたものである。
 しかし、これが共和主義思想の詩だというのは常識となっていて、1989年東西ドイツの統一を祝ってバーンスタインが指揮した「第九」でも「Freiheit」に置き換えて(戻して?)演奏している。

 もともと共和主義の影響を受けていたベートーベンが、「汝(=歓喜)の魔力は分断されたものを再び結び付け、すべての人類は兄弟になる」(「歓喜に寄す」より)世界が実現してこそ、「平和」は実現する。
 平和は、祈ればやってくるものではなく、現実世界の課題であると考えていたのは明らかである。
 Dona nobis pacemの395小節以後は、音楽的には第九の第4楽章に橋を架けている。ミサ自体は充分な満足を得られない終わり方でよいから、とにかく第九に向かうのである。

 ベートーベンの頭の中では、ミサソレムニスは教会音楽の条件を完全に満たすと同時に、第九を初演する演奏会のプログラムの要素でもあった。
 第九の第4楽章は、交響曲の最終楽章であるのと同時にコンサートのフィナーレとするために合唱付きで用意された。
 ここで思い起こすのは、1808年12月22日のコンサートの失敗である。
 当時交響曲5番(運命)、6番(田園)、ピアノ協奏曲第4番(ピアノソロはもちろん自身で弾く)、ハ長調のミサ曲の初演という、とてつもなく重いコンサートであった。
 その上にフィナーレには、ピアノソロ・オーケストラ・合唱の全員参加で締めくくることを直前に思いつき、半月間で「合唱幻想曲」を書き上げた。(合唱幻想曲冒頭のピアノのカデンツァの直後にもう「Finale」と書かれているのはそのためである)
 ピアノパートはまだ書き上げられておらず、初演のとき楽譜には意味不明の記号のような書き込みがあるだけで、譜めくり者を戸惑わせたという記録がある。
 結果的に、練習不足によりコンサートは大失敗であった。
 今度こそそんな失敗がないようにしたい。第九の4楽章は、まずはコンサート全参加者によるフィナーレを兼ねる楽章として早期に準備した。
 (合唱付の楽章はコンサートのための特別仕様で、本来は、別に器楽のためのニ短調の第4楽章を作る予定であったという証言がある)
 演奏会のプログラムに加えることは、ミサの作曲中から意識されていたので、Agnus Deiは、音楽的にも必然的に第九につながった。
 最終的には、ミサはKyrie・Credo・Agnus Deiの3つの楽章をを抜粋して「3つの聖歌」と名付けて第九の前に演奏された。
 第九でバリトンソロが導入のレチタティーボで「おお友よ、このような調べでなく」というベートーベンが付け加えた語句は、器楽曲と声楽曲をつなぐための苦肉の策とされているが、実は「平和は内的な祈りでよしとする」ミサを否定するものだったかも知れないのである。
 ミサの典礼の要請に充分に応えると同時に、カトリック教会に対する反発も隠さない。この相容れなさの共存こそが、実はベートーベンらしさである。

 余談であるが、第九の4楽章のオーケストラの技法とミサソレムニスの技法は近い。フィナーレが出演者全員参加とすれば、第九初演では第4楽章にオルガンを加えた可能性がある。
 ミサソレムニスのオーケストレーションと比べれば、第九の4楽章で、どの部分にどのようにオルガンを加えたかは、容易に推定できる。どんな響きになるか、一度聞いてみたいものである。

 ◆ 2013/12/13(fri)《第2回》 ハレルヤコーラスがこんなところに

 Dona nobis pacemの演奏が進むと、突然聞きなれた名曲の一節が聞こえてくる。
《譜例2-1》
Beethoven ミサソレムニス
 Agnus Dei のフガート

《譜例2-2》
Händel メサイア
 ハレルヤコーラス のフガート

《譜例2-3》
"Dona nobis pacem"のテーマ

 ハレルヤコーラス(ヘンデル作曲「メサイア」の合唱)である。ベートーベンがヘンデルのメサイアなどオラトリオを中心に楽譜を手に入れ、研究していたことは、松村洋一郎氏の論文「ヘンデル作品に関するベートーヴェンの知識」に詳しい。
 それぞれを詳しく比較検討すると、「ハレルヤ」の"and He shall reign for ever and ever."(そして主は永遠に統治なさるべし)のフガート(楽曲の一部で、フーガの手法を取り入れた部分)と、テーマの主要な音に限らず、続く各声部の応答に到るまで、関係が一致していることがわかる。 譜例2-1、2-2において、一致する音に青丸、赤丸をつけて示す。譜例をクリックすると、弦楽合奏の音色で音が鳴るようになっている。 なお、ベートーベンのこの部分は本来ト長調であるが、比較しやすいようにニ長調に移調してある。小さな楽譜をクリックすると、それぞれの音源通りの四声体を大きく表示する。これらから、偶然の一致ではなく、意図的に引用したのは明らかである。

 ベートーベンのアニュスデイでは、どのようにこの部分が導かれるのかというと、まず"Dona nobis pacem."の重要な主題(第123小節、譜例2-3)が提示される。同主題の冒頭の特徴的な6度下降が、127小節以下で4小節だけ展開されて経過部を形成し、イ長調の部分を導く。再現部では、テーマ繰り替えされる(212小節以下)が、続く部分が拡張しされて比較的長い(25小節間)フガートになる。ここに「ハレルヤコーラス」のパロディーがはめ込まれる。

 ソナタ形式の標準では、第二主題は提示部の属調(主調がの場合、)であるが、再現部では第二主題も主調()に戻り、必然的に転調の経過が変わる。それを利用して再現部に手を加えて華やかにする手法がある。分かりやすい例としては、ソナチネアルバムにも入っている、ベートーベンの作品49の2曲のピアノソナタがある。そのパターンを利用しているわけだが、そこにちょうどハレルヤコーラスのフガートがうまくはまっている訳だ。そして提示部の第二主題のイ長調は、再現部では主調のニ長調に戻っている。

 ただし、最初からヘンデルの引用を目的として逆算して主題を作った訳ではなく、作曲の途上で偶発的に生じたと思われる。第127小節の経過部は、g-hの6度下降の音型を大体5度ずつ3回上げて追いかけるが、再現部の217小節では趣を変えて、g-hを3度下げて追いかけてみた。するとe-gとなり、たまたまハレルヤコーラスの主題に似るのである。ベートーベンはここに目をつけてそのままフガートを続け、この機会にヘンデルに敬意を払ったと思われる。
 ベートーベンが引用したのはヘンデルだけではなく、クレドの一番核心となる部分(イエスの復活)を中心にパレストリーナによる教会音楽の様式を用いている。また、バッハのロ短調のミサ曲をヒントにしたと思われる部分もある。しかしこれらの復古的な要素は、逆に古典主義の響きを打ち破る斬新な響きとして我々の耳に届くのである。

 ◆ 2013/12/25(wed)《第3回》 "Dona nobis pacem."の最初の3つの主題

 3つの主題を中心に、音楽構造に少し立ち入って分析する。
《譜例3-1》主題A 詳細
《譜例3-2》主題C 詳細

《譜例3-3》主題B 詳細

 アニュスデイの前半部を終わり、ニ長調の部分は、下降の分散和音から始まる。ソナタ形式における主題ほど明瞭ではないが、ひとまず主題Aとしておく。次に対旋律を伴う主題Bが現れ、フガート風に展開する。
 締めくくるように、次の主題Cが現れる。主題Cは、A、Bのどちらとも違う新しい材料に見えるが、拍節が主題Aと共通し、音型もAと類似し、Aの繰り返しとして聞き取られる。さらに2小節目の音型D-E-Fisは、Bを受けている。
 しかし、Cは明らかに終止感を持たない。それは最後の主和音Dは弱拍に置かれることと、直前の下属和音は、第一転回(つまり、最低音が本来のG音ではなく、第3音のH音になる形)であることによる。 ところが、この主題Cが全曲を終止させるために使われている。これが「荘厳ミサのアニュスデイは終わった感じがしない」原因である。
 これは重要なので、和声における終止という問題を掘り下げてみたい。
《譜例3-4》
和声における終止
《譜例3-5》
クレドの終止
詳細
《譜例3-6》
サンクトゥスの終止
詳細
《譜例3-7》
主題Cの終止
《譜例3-8》
プレストの間奏部
《譜例3-9》
主題B・3回目

 完全終止(楽曲が完全に終止するときの和音)は属和音→主和音(ハ長調ではG7→C)。
 下属和音→主和音(F→C)も楽曲を終止させることができるが、この終止を変格終止という。宗教曲では、しばしば"Amen"という歌詞の変格終止を完全終止に付け足す形で用いるので、アーメン終止とも言われる。《譜例3-4》
 ミサソレムニスでは、キリエは完全終止である。ただし、属和音から低音だけDを先取りしA7onDである。グロリア、クレド、サンクトゥスはいずれも変格終止である。とくにクレド《譜例3-5》、サンクトゥス《譜例3-6》は宗教的雰囲気をたっぷり醸し出す。
 それらに対して、主題Cの終わり方は、変格終止の一種ではあるが、下属和音GがonB(英語音名)なので終止感を伴わない。それでもアニュスデイの最後は、このテーマCを用い、最終の主和音Dを2小節あまり伸ばすだけで終わる。
 主題A,Cに対して、主題Bは姿を変えながら4か所で登場する。最初は第2バイオリンの修飾音型を同音域で重ねるので、旋律線はややぼやけた印象になる。2回目以降は、それぞれ特徴のある現れ方をする。
 2回目は、終盤226小節・プレストの間奏部の主題《譜例3-8》になって現れる。
 主題Bは短縮され、またフォルティシモで低音に置かれる。また対旋律は第2バイオリンで変奏される。しばらく展開され、終結部のように盛り上がる。やがて変ロ長調で金管を伴いティンパニーが全力で連打する。前半164小節では、現実の戦場の恐怖を描きただ怯えるだけであったが、今度は天の軍勢が現れ、地上の戦争を制圧して平和が訪れる。ソプラノソロが、合唱とともに、今度は勝利を確信して"dona nobis pacem."と高らかに歌う。
 すなわち、主題Bの本質は「天の軍勢による勝利」のメロディーであった。やがて(355小節から)次第に沈静化し、361小節から主題Aが変奏されながら再現する。主題Aはこれで3回目だから、ロンド形式のような作りである。主題Aは次第に合唱に移り、やがて374小節で、テーマB《譜例3-9》を呼び出す。テーマBは今度で3回目でソリストの重唱である。もはや対旋律は消え、装飾音型もなく、穏やかに平和への感謝を歌う。
 そのまま383小節まで展開し、384小節から389小節までは、提示部の終結部(155~161小節)の繰り返しである。今度は主調のニ長調で再現される。
 ところが、第1回で述べたように、390小節で"pacem"の叫びは突然断ち切られる。そして、395小節のホルンによる、主題Bの4回目の登場である。もう、第九の歓喜の歌に直接つながるひびきとなっている。
 このように主題Bはその都度姿を変えながら4か所で現れ、心の「外の平和」(現実生活における戦争の脅威を取り除こうとする意思)を表すものである。またさまざまな姿による登場を通して、歓喜の歌に近づいていく。
 しかし、主題Bで終結することはない。また主題Cが帰ってくる。そしてティンパニーによる戦場の響き(406~415小節)は、pppになって遠ざかる。だが、それに置き換わるべき主題CはGonB→D(《譜例3-7》)という、終止とは言えない終止である。クレドやサンクトゥスにおける変格終止に比べても、極めて不満足である。
 そして、アニュスデイはそのままあっけなく終わってしまう。戦場の恐怖や、天の軍団の反撃を力強く音楽で描いていることから見て、ベートーベンにとっての「平和」は、続く「聖体拝領」で完全解決する問題ではないのである。もう、カトリック教会の内部に留まることはできない。教会の外に出て、現実社会における平和への意思を高らかに歌い上げなければならない。 平和を願う強い意思は、ついに教会音楽から飛び出して、現実社会に向かう。それが第九の4楽章である。実際、初演演奏会では、その次に第九が演奏された。私は、主題Bと主題Cの展開を音楽的に詳しく見るほど、その思いを強くするのである。

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